(1)ショケラの語源                                   元に戻る
平安時代、藤原清輔の書いた「袋草紙」に次の「しや虫の歌」がある。
 しや虫や 去ねや 去りねや 我が床を
       寝れど寝らむぞ 寝むぞ寝たれど」
室町時代以降作られた「庚申縁起」や「庚申の大事」の多くに次の「ショウケラの歌」が載せられている。 
 しょうけらや 去ねや 去りねや 我が床を
       寝れど寝らむぞ 寝むぞ寝たれど」
これらは人が寝入るのを待ちかねている「三尸の虫」に対して「俺は寝ないぞ、寝ていても寝てないぞ」と宣言する呪文であり、「しや虫」も「ショウケラ」も明らかに三尸の虫を示している。
しかし「しや虫」が「しょうけら」に転訛した理由についてこれまで納得のいく説明がなされていなかった。
袋草紙の「しや虫」と庚申縁起の「しやうけら」をつなぐ著者の仮説を簡単に紹介しておく。

1)最新版「袋草紙」(新日本文学大系29 岩波書店 1995)によると、袋草紙の原本は「しやむし」ではなく、「しや□むし」であり、□の部分に1〜2文字分の判読不能な文字が入っていたことが分かった。
岩波本の編集に当たって十三もの諸本が参照されているが、そのうちで続群書類従本だけが「しや虫」であり、他の本のこの部分はすべて「しや□むし」のようにブランクになっている。

2)「三尸虫」すなわち「尸虫」の訓読みは「シャクタレ虫」だったと思われる。
「尸」は独立した漢字であるが漢字の部首でもある。漢和辞典では「シカバネ(カンムリ)」と呼ばれているが、形の似た「雁(ガンダレ)」「麻(マダレ)」「病(ヤマイダレ)」などとの比較から、「カンムリ」ではなく「タレ」であるべきである。尸のついた漢字の代表として「尼」「屁」「尻」「尿」はタレを付けると具合が悪く、もっとも簡単な「尺」のタレすなわち「尺タレ」が適当である。。
(山崎闇斎の著書に引用された袋草紙の歌では何故か「しや虫や」でなく「シヤタレや」となっていることが従来から指摘されていた。)

3)袋草紙の原本は「しやくむし」であり、「く」には「具」のくずし字が用いられていたと思われる。後世写本の際、達筆で文字が崩れていたため判読出来ず「しや□むし」とブランクのままに書き写された。
一方、図で示したように「具」を極端に崩すと二文字のように見え、「く-->けら」と誤読される可能性がある。庚申縁起が作られる際、「しやく」を無理に「しやけら」と呼んだため、「ショウケラ」などの名前が伝承されることになった。

ほとんどの庚申縁起にはショケラの歌が引用されており、ショケラ=三尸虫であることは明らかだが、「ショケラとは三尸虫のこと」と積極的に説明した縁起が一つもないのは、その意味(語源)が最初から分からなかったためであろう。
また語源が分かっていれば、「しょうきゃら」「青鬼ら」「そうきゃら」「しょうきょう」など混乱して伝わることもなかったであろう。
ショケラが「く-->けら」の誤読から始まった以上、誰にも語源が分からなかったのが当然である。

(2)ショケラの呼び名                                              元に戻る
窪徳忠著:庚申信仰の研究S36)によると、福井の美浜町に「ショケラ」の名称が「ショケラがいろいろ悪いことをするので、庚申の神様が髪をつかんであばれないように押さえ込んでいる」という伝承とともに正確に伝わっている。

窪氏は、福井の伝承をもとに、ショケラ=青面金剛金剛が下げている女人像とした。
石仏仲間も(名前がないのは不便なので)、女人像をショケラと呼び始めた。

しかし、学会の大勢としては「@江戸でショケラと呼ばれた実例はない」「A全国で福井の三例しかなかった」として、女人像=ショケラは「証拠不十分」の扱いを受けているようである。

「ショケラと呼ぶのは間違いらしい」と取られることがあり、各地の教育委員会の説明板では「ショケラ」を使わず、「餓鬼」「赤子」などと書いてあったりするが、ショケラ以上に何の根拠もない呼び名である。 赤子ではなく成人女子の姿である。
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ショケラの呼び名は、S36の窪説通りで正しいと思っている。

@の「江戸でショケラと呼ばれた事例がない」というのは、江戸中心の考えから来たもので、今となっては根拠にならない。
昭和30−40年の研究では、庚申信仰は江戸で始まり徐々に地方に広がったというイメージで考えられていたが、関西の庚申信仰をよく調べなかったための誤まりである。(関西には庚申塔が非常に少ないための誤解かも知れない。)
庚申信仰は、関西の方が関東より数十年先行しており、あらゆる文化と同じように関東に「下って」きたものである。

Aの福井は江戸から見ると、遠い片田舎のように見えるが、関西から見ると琵琶湖をはさんで地理的にも心情的にも京都に非常に近い土地である。ショケラや庚申信仰の起源が江戸ではなく関西であることが分かった今、江戸中心の考えを改める必要がある。
福井は江戸時代から京都への参詣者が非常に多い地域である。関西の寺院で直接聞いたショケラの説明が福井に持ち帰られて伝えられ今でも残っているのであろう。
福井美浜町の庚申講は全国でも珍しい家単位の庚申講であることも考えておく必要がある。親から子への伝承は、不特定メンバーが集散する地域の庚申講の伝承よりもずっと正確に伝わってきたはずである。  →※ 福井の「ショケラ」

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S36の窪説の時点ではまだ分かっていなかった次の謎が、最近明らかになった。窪説への補強証拠と考えて良いだろう。
 (1)ショケラの語源 「く→けら」の誤読   しゃ虫→しやけら
 (2)ショケラの姿=仏典の商羯羅天(妃)  ショケラ退治→商羯羅天(妃)退治として表現

  S30窪原文「かかる姿(髪を吊された女性像)で現わした理由、およびこれを「シヨケラ」とよびはじめた年代と理由と明らかでないが、・・・」

福井の「ショケラ」

戦国の始め、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如は延暦寺との抗争を避けて大津から福井の吉崎御坊に移り、北陸を中心に浄土真宗の布教活動を行った。その結果、信者が急増し、一大政治勢力となって戦国の動乱に巻き込まれそうになったため、これを避けて山科本願寺に移る。その後様々な経過を経て、3〜4代あとの後継者の時代に京都本願寺に落ち着く。詳しいことは蓮如の伝記を読んで欲しい。

福井では、本願寺は自分たちが盛り立てて中央へ進出させたという自負があり、地元後援会的な気分もあって、毎年、団体で京都本願寺参りをする習慣が江戸時代から今でも連綿として続いている。
福井と京都の間は江戸と箱根くらいの距離である。琵琶湖には京都に物資を運ぶための船が往来しており、病気など万一のときは舟で送り返してもらえる安心感もある。年中行事だから道案内人や途中の宿の受け入れ態勢も完備していたであろう。福井の人は気軽に生涯に何度も京都参りが出来たのである。

本願寺に参ったあとは自由行動で京都や奈良の観光が出来たであろう。たまたま庚申寺で青面金剛の有り難いお話を聞いた人が、持ちかえって自分の家の伝統行事として取り入れ子孫に伝えた。
初期の庚申信仰は個人信仰から始まったらしいことは片桐貞隆や藤林宗源の例でも分かる(窪氏著書)。


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福井の家単位の庚申講はこうした初期の庚申信仰の姿が伝わったたものと思われる。
地域の庚申講は不定期でありメンバーも集散するため、勝手な想像や作り話が付け加わって伝承が不正確になるのに対し、家単位の庚申講での親から子へは正確に伝わる。福井の事例では「ショケラ」の名前だけでなく、「ショケラが悪いことをするので庚申の神様が髪を掴んで封じ込めている」という表現で金輪院庚申縁起の内容やショケラの意味がほぼ正確に伝わっており、窪氏の調査でショケラの本来の意味を伝える唯一の地域であることは無視できない。
資料 窪徳忠 「庚申信仰の研究」S36 (1980復刻)より抜粋

−福井県三方郡美浜町麻生−

家単位の庚申待
美浜町は敦賀市の西方約三粁に有り、北陸本線の支線小浜線沿い、三方郡の最東部にあたる。昭和二九年二月、南西郷・北西郷・耳・山東の四ヶ村を併せて新たに町制をしいた関係上、いまだに農村的色髪濃厚に残している町である。東・南・西の三方は山に囲まれ、日本海に臨む北の一面がひらけているのみである。町の総面積の八割までが山林地帯で、平地は一町のほぽ中央を南北に貫流する耳川に沿つて、海に向う三角形の部分だけにすぎず、そこ耕地および部落が点在している。旧耳村の一字であった麻生は、美浜駅がおかれて町の中心部を形成する河原市部落の東南約三粁の地点にあり、南・東の二面を囲む山のゆる屋かな裾に位置する。全部落五二戸(昭和二九年四月一日現在)がすべて農家であるが、一戸当りの平均経営面積が六反弱、反当収穫は五俵平均という有様なので、兼業農家が21戸におよぶ。大冨農はなく、大体中農程度で、古くから富裕とはいえない部落でおる。

珍しいことに、ここでは家単位で庚申待を行うのみで、庚申講がない。さりとて、古くから宗教的な講が皆無だつたわけではなく、三、四〇年前までは・伊勢・行者・秋葉・山の神・愛宕・八窪どの諸講があつた。けれどもそれらの講の費用一切が頭屋持で有り、かつ月に二、三回は何かの講があるために、経済的負担と時間の浪費にたえかねて・念仏講とオナゴ神明講のみを残して、他の講を一切廃止してしまつたという。
なおこれらの諸講は、朝食前に頭星に集合し、それぞれの軸の前に神酒、饒米を供えて朝食をともにしたのち、神酒、饅米を分配して平常通り仕事にかかつた由である。

講の行事は夜聞行うのを通例とするから、その点でも、他の地方と相違しているわけである。それはとにかく、かく多数の講があり、寺の境内には、無銘ながら、庚申塔も造立されている上に、「話は庚申の晩」という言葉まで伝承されているから、あるいは以前には庚申講があつたのではないかとも考えられる。けれども、現存の伝承や習俗からは、それらしい形跡は一切認められず、老人たちの言によれば、八〇年前にはすでに家単位であつたというから、おそらく庚申講はなかつたのではないかと推定される。

全国的にみて、かかる類例はきわめて少い。今日までに私がしりえた範囲では、麻生の南方約二粁にある安江部落の他には、福井の4・7、岡山の2・14、広島の10、鳥取の1・4・5・11・13・14、徳島の1、愛媛の4・5・7・8・12・25などがあげられるのみである。

徹夜と就寝時の呪言

古くこの地方で、庚申の晩には徹夜が原則であつたことは、軸を翌朝までかけた儘にしておくことの他に、燈明や線香を一晩中たやしてはいげないという伝えによつて、明らかである。「お庚申さんは遅くまで起きているのを喜ぶから、徹夜をする」とのべた老人もあつた。けれども、明治10年代にはすでに、早げれぱ10時ごろ、遅くとも12時ころには燈明や線香をけして、就床するようになつていた。このように徹夜せずにねる場合には、つぎのような呪言めいた誦言をねる前に床の中で三度誦えなければならないとされている。その呪言は
ショケラよ、ショケラ、ねたかと思つてみにきたか、ねたれどねぬぞ、まだ目はねぬぞ
あるいは
ショケラよ、ショケラ、身体はねたれど、目はねぬぞ。
など、家によつて多少の相違がある。この呪言を誦える理由については、つぎの二説がある。

一説では、「ショケラ」は庚申さんの弟子で、この晩に人々がねるか否かを監視しているので、夜明しをするのがもつともよいが、この呪言を誦えれば、ねてもねないと同様の効果があるといい、
他説では、「ショケラ」は人間を罹病させることを始めとし、さまざまな悪いことをするものでおる。そこで庚申さんが、それがあばれださないように、頭髪をつかんでおさえているのである。そうして、この呪言を調えれば、徹夜せずに早く就寝しても、風邪をひいたり、羅病Lたりしない、というのである。

第二の説から推測されるように、「シヨケラ」とは、前述の青面金剛が左の中手で頭髪をつかんで下げている半裸女人像の姿で現わされたものである。
かかる姿で現わした理由、およびこれを「シヨケラ」とよびはじめた年代と理由と明らかでないが、実はこの呪言とそれまつわる伝承とは、日華の庚申信仰の関係を考える上において、後述のようたきわめて重要な意義と価値をもつているのでおる。

庚申さんの持ち物についてはさほど問題がないので省き、前述の「ショケラ」すなわち庚申さんが下げている半裸女人像についての伝承を記しておく。この女人像をショケラと呼ぶのは、福井の2−4の他には三重の1のみである。

大畠注 以下各地のショケラの伝承が列記されているが、福井以外はすべて荒唐無稽の説である。
大畠注
女人をショケラと呼ぶのは「全国で福井の3例しかない」と軽視されることがあるが、証拠は数ではなく質である

福井は
@家単位の庚申待なので親から子に正確に伝わった。
Aショケラの名前だけでなく、
ショケラが様々な悪いことをするので、庚申の神様が髪をつかんで封じ込めている」という的を得た伝承を伴っている。
Bショケラの発祥は関西である。福井は江戸から見ると片田舎だが、関西に非常に近い地域である。

などから、証拠能力は高い。
関西の初期青面金剛信仰におけるショケラの呼称と意味が正確に伝わり保存されたものであろう。

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