庚申画像集(その1) 青面金剛                   写真集目次へ
青面金剛は地蔵に次いで、どこにでもあるポピュラーな仏様だが、その正体はこれまで何も分かっていなかった。
これまでの説明 「庚申の主尊」「神道、儒教、仏教を混ぜ合わせて作りあげたもの」・・・
「儀軌の青面金剛」とチベットの「マハーカーラ」  両者の酷似が、「青面金剛進化論」の出発点。
 
    
マハーカーラは象神の皮を剥ぎ背中に着ている。儀軌の「両手両足に4匹の赤大蛇」は、象の皮の四つ足部分の見誤り
マハーカーラ図が説明抜きでインドから中国に伝わり、一人歩きし、「
病を流行らせる悪鬼」とされた。(誤伝)
6手青面金剛木像(平安後期)   「病を流行らせる凶暴な悪鬼」から「病を駆逐する穏やかな善神」に変身。
 
金剛夜叉明王(3面)から作られた青面金剛木像: 「青面→正面」の読み替えで1面。 刀を振り上げる「」から、鈴の音に聞き入る「」の姿に。 
剣人型以前の古い形式   穏やかすぎる表情への不満、金剛鈴の扱いが不適切。→修正された6手像
 
四天王寺所蔵: 古い形式の6手青面金剛。   比較的最近、古い形式(左)を復元制作したと思われる青面金剛木像(深大寺)
★中2手は金剛鈷と金剛鈴を使う金剛印金剛夜叉明王からの引継ぎ。これを簡単な合掌印に変えれば標準6手合掌型に変わる。
金輪院掛け軸(本尊、秘仏) 片桐貞隆(旦元の弟)所有 秀吉の天下統一時代(1580頃?) 最古のショケラ。青面金剛図としても最古? 
  
変色がひどい。パソコン処理により、レプリカと同じように黒鬼がショケラを持つことを確認。  江戸時代に描かれたレプリカ 黒鬼のショケラ
大津絵  (日本民芸館収蔵品目録、青面金剛展カタログ、大津歴史博物カタログ) 
  
大津絵A(日本で1枚だけ。肉筆大津絵)            大津絵C(紙版/木版/手書きを併用した大量生産の土産物)    
 
              大津絵Cの特長は、2匹の立ち猿               取手小堀水神社寛文9年大津絵Cのコピー 
                                            ★大津絵発祥年代
を決定するためにも重要。  
四天王寺系のお札
   
 寛文元年板橋は、四天王系お札をそのままコピー。光輪、2邪鬼、とくに2童子の持ちもの(香炉とシャク)に注意。
その他のお札
  
  金輪院のお札(ただし明治の木版)        三面、巨大な邪鬼     寛文2板橋の本尊(三面、巨大な邪鬼)は、未発見のお札のコピー
四天王系の掛け軸
 
 四夜叉:右から2番目の鬼が別方向を見る。虎皮パンツの上にふんどしを締める。→大津絵Aの四夜叉にもコピー
江戸初期青面金剛のモデル   寛文1板橋 寛文2板橋 寛文3所沢 寛文4浦和
  
 大津絵A(再出)     寛文2板橋 四夜叉は大津絵Aのコピー(頭を掻く赤鬼、チューリップのような三叉戟、虎皮の上にふんどし。)
 
  
  寛文4浦和の主尊は、大津絵の裏返しコピー、あるいは金輪院のお札のコピー。多分金輪院のお札が大津絵のモデルなのであろう。
  
  寛文4浦和の四夜叉は、金輪院本尊掛け軸および金輪院お札のコピー。  衣装の裾が風になびく(パンツやふんどしではない)。 
◎門外不出のはずの金輪院本尊掛け軸が、遠く離れた浦和の路傍の青面金剛にコピーされているのは何故。
当時、金輪院掛け軸と同じ図柄のお札があり、板橋の石工は金輪院のお札を入手してコピーしたのであろう。上左図は明治の版木
◎大津絵Cは、土産物として大量に売られたものだが、この図柄が石仏に写されているのは、取手小堀水神社寛文9年の一基だけ。
◎大津絵Aは、日本に1枚しかない肉筆絵青面金剛。それが板橋寛文2/浦和寛文4に写されているのは何故。
  時間的に考えて、大津絵Aは、板橋石工向きに作られた特注品?。
●板橋石工は江戸で初めて青面金剛を作成するに当たり、大津絵画家に青面金剛資料の調査を依頼し、関西に出回っているお札などの図版を多数入手。
  調査謝礼金の返礼として大津絵画家が肉筆大津絵Aを描いて板橋石工に送った?。

写真集目次へ

inserted by FC2 system