保土ヶ谷の石仏             目次に戻る
保土ヶ谷駅の西口、旧東海道宿場と鎌倉道に沿って石仏が点在する( )。@〜Cは必見。
C橘樹神社 寛文9
  @金沢横町
A地蔵堂下
A地蔵堂石仏群

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<コース説明>

保土ヶ谷駅西口の駅前のロータリーと駐輪場を左に捲くように進み、マンションの脇から西口商店通りに出る。この辺りが旧東海道保土ヶ谷宿の中心部である。

マンション角〜眼鏡店にかけて問屋場跡。右手の郵便局のある横町入口に高札場跡。 商店通りを直進して踏切を越え、国道一号線に出たところに本陣跡。
@金沢横町の道しるべ群
西口商店通りを左折して進むと30メートル先に左へ分かれる金沢横町があり、道しるべ石碑が並んでいる。
東海道から分かれて鎌倉金沢方面に行く「金沢道」の分岐点である。

○ 「かなざわ道かまくら道」道標 側面に「ぐみょうじ道」
○ 「円海山之道」道標   峰の灸(磯子区峰 )で有名
○ 「ほどがやのまちかど曲がれ梅の花」杉田梅林道標 
     (磯子区杉田妙法寺付近)俳句入りの道しるべは珍しい。
○ 芋神大明神 (疱瘡の神様)(磯子区富岡)
A地蔵堂石仏群 石名坂の中腹「政子の井戸」の向かい

道しるべにしたがって金沢横町を曲がり、踏切を渡って国道一号線に出る。
信号を渡った先の「政子の井戸」案内にしたがって石名坂を登る。この石名坂(いわなさか)は、長い歴史を持つ重要な古道である。
鎌倉時代:「鎌倉下の道」
      鎌倉幕府が亡びた後も長い間主要交通路として利用された。
江戸時代:「金沢鎌倉道」「弘明寺道」「浦賀道」
     主交通路が東海道に移ったあとも、鎌倉や金沢八景への観光路として多くの旅人や文人が往来した。
     幕末の黒船騒ぎでは浦賀警護の大名の軍隊が通った道でもあった。
     保土ヶ谷宿に潜伏して黒船の様子をうかがって密航を企てていた吉田松陰もこの坂を何度も通ったことであろう。

坂の中腹に「政子の井戸」があり、保土ヶ谷区指定文化財となっている。
「政子の井戸」の名前の本当のいわれはよく分からないが、鎌倉時代から大正まで800年以上の長い時代にわたって旅人の渇きをいやしてきた水なのであろう。
政子の井戸の反向かいに元禄年号の可愛い地蔵庚申と石の水盤がある。手すりのついた石段を滑らないよう注意して上がると、「地蔵堂」で石仏群がある。
地蔵数体のほか、元禄から宝永にかけての初期の各種様式の庚申塔−−地蔵庚申、青面金剛、阿弥陀座像庚申、日月だけの庚申塔などが揃っている。
あとの2つには三猿がないので、碑文の中に「庚申供養」などの文字を見つけて庚申塔であることを確認する必要がある。
青面金剛二体の髪型が少々変わっている。額のしわは不動明王を真似たものであり、まだ様式が完全に確立していない頃の青面金剛である。

B北向地蔵
石名坂を登り詰めた十字路に北向地蔵がある。
台座側面が「ぐみょう寺道」の道しるべになっており、先ほどの金沢横町の「かまくらかなざわ道」道しるべと同じ筆跡の達筆で彫られている。正面には「これより金沢道」。
●ここを直進すれば鎌倉金沢方面への道で、江戸時代の鎌倉街道につながる。
●道しるべどおりに右折すれば弘明寺方面だが、大正初めの道路工事と最近の高速道路工事で弘明寺道への旧道が二度にわたって分断され、ルートが分かりにくくなった。

「弘明寺道」とは、「江戸以前の鎌倉古道」の江戸時代の呼び名である。
北向き地蔵から弘明寺へ出る古道は少なくとも3つ考えられるが、どれが鎌倉時代からの古道なのかは確定していない。

石名坂を下って国道1号に戻る。
次の天王町にいくには、もとの踏切を戻るか保土ヶ谷駅構内を通るかして西口商店街に戻り、500m直進する。

 
C 橘樹神社
西口商店街の通りに戻り、相鉄線天王町駅前を通り、商店街で帷子川を渡って信号の角が橘樹神社(旧牛頭天王社)である。
この辺りが保土ヶ谷宿の江戸側の入り口(江戸見附)に当たる。

拝殿の左手に、「力石」。村の青年たちが体力つくりとリクレーションに使ったもの。

拝殿左奥に神田不動がある。この不動は本来は大山不動尊で、台石に「大山近道」の道しるべがあったという。
昭和10年頃、一時神社境内から移転し独立した不動尊とされたことがあり、その地の字名から「神田不動」とした。(東京の神田とはまったく関係ない。神社領を示す地名である。)
その際、「大山近道」の字も削られたという。戦災などで荒れていたのを、昭和43年に旧地に戻し、不動講を作って信仰を続けているとのことである。

不動堂の隣に最近建てられた立派な庚申堂があり、三体の青面金剛が安置されている。
  寛文九年(1669)2月  合掌型変形六手
 天和二年(1682)正月  合掌型標準六手
  明和元年(1764)12月 剣人型標準六手

中央の一体(寛文9)は横浜市最古の青面金剛であり、様式も大変珍しい。
上大岡駅近くの自性院に同じ寛文九年の三面合掌型青面金剛があるが、橘樹神社の方が約半年早い。

寛文年間は石工たちが青面金剛の姿や持ち物をいろいろ工夫した時代で、同じ姿のものがほとんどない。
この青面金剛も次のように石工の工夫のあとが読み取れる興味ある様式である。

橘樹神社青面金剛(寛文9)の様式について
石仏の青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は弓矢の代わりに羂索と棒を持っている。
青面金剛はもと流行病を流行らせる悪鬼だったが、のちに改心して病を駆逐する善神となったとされている。(渓嵐拾葉集)

儀軌(陀羅尼集経九 大青面金剛呪法)に示された青面金剛は四手で、全身を大蛇やドクロで飾った青鬼であるが、この姿は日本人には不気味すぎたため、礼拝の対象としてはもっと穏やかな姿の青面金剛像が求められた。
橘樹神社の像は儀軌の四手の持ち物−三又戟、輪、羂索、棒−をそのままにし、これに合掌二手を付け加えて六手にすることで「善神」に変わったあとの姿を表現しようとしたもので、初期の青面金剛像の成立の過程を示す貴重な像である。

青面金剛は必ず炎髪(炎のように逆立った髪)で作られるものであるが、この像は円い髪であり類例を見ない。後頭部に光輪が彫られているのも珍しい。
江戸時代の青面金剛石像の姿が同じ時代に京都土産として全国各地に持ち帰られた大津絵の影響を受けていることは以前から指摘されている。
大津絵の四手青面金剛の図と比較して頂ければ、この像の「円髪」「後頭部の光輪」「太く短い棒」などが大津絵をモデルにしたものであることが一目瞭然であろう。
他の2体、は江戸時代青面金剛の2つの標準型なので、様式を比較検討するのに好都合である。

の明和元年十二月像は、保土ヶ谷宿の反対側のはずれにある保土ヶ谷町元町橋権太坂入口の明和二年二月造立青面金剛と寸分違わぬ図柄であり、同じ石工が同じ下絵をもとに同じ時期に作ったものである。元町橋の青面金剛は、権太坂−境木越えの歴史ハイキングコースの入り口という立地のよさがあって目につきやすく、よく郷土資料などに写真が載るが、顔が著しく摩耗して、もとの姿が想像しにくい。一方、こちらの橘樹神社の像ははっきり表情まで残っており、これらの石仏が長い間大切に保存されていたことを示している。
保土ヶ谷の石仏資料

1)保土ヶ谷区の金石碑については磯貝長吉氏の調査研究
   「横浜市文化財調査報告書 第6輯 保土ヶ谷区金石誌」S44
   「  仝   拾遺」S46
  があり、2回にわたって追補されていることから一応完全なリストであろう。
  この「保土ヶ谷区」は分割以前のもので旭区の分を含んでいる。(県かながわ資料室 紅葉坂県立図書館分室

2)道しるべについて藤橋幹之助氏「道標とともに−金石誌」がある。
この調査は、保土ヶ谷に限ったものではないが、藤橋氏は保土ヶ谷区霞台に  在住されていたことから、地元の保土ヶ谷とその周辺に関する限り、とくに  完ぺきな資料と考えてよいと思われる。(横浜市保土ヶ谷図書館など)

3)写真集としては、「野辺の庚申塔を尋ねて−−S52 横浜西部新報社」
保土ヶ谷区、旧戸塚区(栄区、泉区)、旭区、瀬谷区の全石仏について写真とデータを載せている。
脱落や誤記があるようだが、写真が載っているのは強みである。(横浜市保土ヶ谷図書館)

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