相鉄沿線の石仏              目次に戻る  

保土ヶ谷唯一の双体道祖神
  「庚申善神」 青面金剛
  人間くさい表情の地神像
  「大山道」 道しるべ
大山道はどこを通っていた?
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コース案内
相鉄線の上星川で下車。
@16号線沿い道祖神ほか
踏切を渡るとすぐ国道16号線である。道路を渡り、頭上を通るJR貨物線の下をくぐって20メートル先の坂道の下に3基の石仏−青面金剛庚申塔、双体道祖神、地神塔がある。
道祖神は隣の戸塚地区や丹沢山麓などではどこでも見かける石仏であるが、保土ヶ谷地区にはほとんど見当たらない。
(相模と武蔵の違い?  私が知る限り保土ヶ谷地区で唯一の道祖神である。)
青く着色された跡があり、正月のドンド焼きの行事で主役を勤めた名残である。
A馬頭観音(日露戦争従軍馬慰霊)
もとの駅前に戻り、商店街を通って坂本町交番前に出る。20メートルほど横浜側に戻ると、頭上のJR貨物線の下に蔵王神社があるが、その入り口付近に小さいながら立派な馬頭観音がある。自宅で飼っていた馬3頭の慰霊碑だが、うち1頭は日露戦争に軍馬として徴発された馬であり、家族の人たちの馬への愛情と歴史の一駒を感じさせる。
   日露戦争の時の軍歌(出征)
   父上母上いざさらば 私はいくさに征きまする
   隣におった馬さえも 徴発されて征ったのに
   私は人と生まれきて しかも男児とあるものが
   お国のための御奉公 いつであろうと待つうちに
   昨日届いた赤だすき 掛けて勇んで征きまする(以下略)

B薬師堂前石仏(「庚申善神」庚申塔ほか)
馬頭観音脇の道を入ると、昭和55年に再建された薬師堂の前に元禄9年の青面金剛、斉上地神塔など、数体の石碑石仏がある。
元禄9の青面金剛は6手合掌、2羽のニワトリが刻まれているが三猿はない。
青面金剛の姿は標準型であるが、塔に彫られた「庚申善神」の文字は全国で他に類例がないもので、大変貴重な資料である。
儀軌に書かれた四手の青面金剛像が日本で作られなかったのは何故かというのは青面金剛の謎の一つである。
陀羅尼集経第九によると、青面金剛は口は耳まで裂け牙をむきだした四手の青鬼で、額には蛇とどくろを頂き、どくろを連ねた瓔珞(ようらく=首から下げる飾り)を付け、腰と手足に大蛇を巻き付けた姿として描写されている。

日本人の感覚では儀軌に示された「蛇とドクロに囲まれた青鬼」は「病を流行らせる悪鬼」「死神」に見え、人々は崇拝の対象として「改心して病を駆逐する善神」になったあとの青面金剛の姿を求めたというのが筆者の説であるが、この「庚申善神」の文字の彫られた青面金剛は筆者の説をそのまま裏付けてくれているように思える。
塔には20人ほどの人名が彫られているが、先頭に彫られた「方誉傳西大徳」は、武蔵国風土記稿にたまたま出てくる人物で、この薬師堂の最初の建立者の一人である。

武蔵国風土記稿:
「坂本村 薬師堂:村の北にあり。二間半に四間東向、本尊  薬師の立像三寸、境内に元禄九丙子十月 方誉仰誉 二人の名を刻せし石碑あり、
この二人始めてこの堂を建立せしという。」

庚申塔の近くに「元文3年」の石碑がある。碑文は磨耗して読めそうで読めないが、磯貝氏の資料によると

   往古よりこの□の往還は坂・・・・幾余□風雨・・・・人馬の・・・・ある時は風・・・・狂いて自然・・・・往来す危難・・・・買求め人夫雇い・・・・平坦の道に   なししかのみならず坂下の道・・・  「発起人 □□法師、岡崎市左エ門 小金井六エ門 石井治エ門」

この文章は元文二年の和田開削碑の碑文とよく似ており、人名も共通している。
和田開削に引き続いて帷子川対岸の坂本の道も大修理したらしい。(鶴ヶ峰にもほぼ同文の石碑があるとのこと。)

堂の脇に歴代堂守りのものらしい墓石が数個と元文6?の念仏供養塔がある。「南無阿弥陀仏 為一千日別時念仏供養」
「願主方誉伝西大徳ほか1 導師慶雲寺二十一代生養上人 施主当村中」。

他に「指さし案内」の残欠がある。「たか・・・」ではなく、「左 か・・・・」である。
江戸時代の交通路は、和田橋−坂本村−川島村−市沢村−(二俣川方面、今井方面)であったことから「左 かわしま」と思われる。

C杉山神社(跡地)石仏(堅牢地神像ほか)
横浜方向に約50メートル進み、仏向町に入るとすぐ仏向町 杉山神社跡地 。

境内にあった3基の石仏石碑が道の角に移設された。
  聖観音庚申塔。湯殿山碑。堅牢地神像。

庚申塔には阿弥陀如来、観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王など種々の仏像が彫られるが、保土ヶ谷地区では青面金剛と地蔵型庚申しか見られない。庚申塔に観音菩薩を彫る場合はほとんどが2手の聖観音で蓮華を持つ。顔が破損しているのが残念である。

地神信仰は比較的新しく、江戸後期から明治にかけて流行した。
地神塔は「地神塔」「堅牢地神」の文字が書かれたものは沢山あるが、地神像を刻んだものは珍しい。(地神像を彫った地神塔には、ほかに上大岡鹿島神社、井戸ケ谷神社、藤沢白旗神社、藤沢江沢神社がある。布教のために発行した御影の像をモデルにした姿で衣服の袖や帯の垂れ具合までそっくりである。)
本来、堅牢地神は万物を「産み」「育てる」大地の恵みを神格化したインドの女神で本来はほとんど裸で乳と股を指している姿であるが、日本では天女像や武神像の姿で描かれ、「花を盛った水盤」を抱えるのが特徴である。

ここの地神像は彫刻的にも出来がよいが、「神様らしくない」表情に特徴があり、禿上がった額と炎髪のアンバランスも面白い。布教関係者など実在の人物をモデルにしたのではないかとも想像される人間くさい表情である。

湯殿山碑 湯殿山参拝の記念碑で各地に見られる。
通常は講を作って費用を積み立て、代表者を選んで参拝した。出羽三山のような山岳宗教ではただ参拝するだけでなく山伏修行の一部を体験をさせられるような仕組みになっていたから屈強の若者が代表に選ばれたであろう。

D和田開削碑
ここで踏切と川を渡り、再び16号線に出て歩道橋で反対側に出る。歩道橋の下に「和田開削碑」がある。
この付近、昔は山が川岸まで張り出していたため帷子川北岸の道はここで切れており、八王子方面に行く場合ここで山越えが必要で旅人が苦労した。江戸前期に地元の奉仕で道を開削したいきさつが石碑の全面に細かく記されており、「保土ヶ谷区指定文化財」である。付近の地形をよく眺めれれば当時の山が迫って川沿いが通行出来なかった状況が想像できると思う。
E和田 杉山神社 「大山道道しるべ」庚申塔
16号線を横浜方面に進み、和田駅前を通り越して横浜バイパスの高架線が頭上を横切る位置で右折すると高架線の下に和田の杉山神社がある。E
境内の青面金剛の側面に「左 八王子ミち」「右 大山ミち」の道しるべがある。石碑の道しるべから昔の交通路を探るのは石碑研究の一つであるが、この「大山道」は難問中の難問。

江戸時代の八王子道は帷子川の屈折に合わせて曲がりくねっており、杉山神社も八王子道ももっと山裾にあった。また和田には八王子道から分かれて帷子川を渡る街道があり、相州道と呼ばれた。)この道しるべはこの枝道の分岐点にあって、大山道(今井町〜東戸塚川上町〜岡津)への近道を示していたものと思われる。橘樹神社不動明王の「大山近道」もここへつながるものと思われる。(「追分け/大山道の研究」参照)

F和田地蔵
帷子川岸へ出て少し引き返し、橋を渡るとコースの終点相鉄線の和田町駅である。
橋を渡る手前右手に「和田地蔵」の地蔵堂がある。
提灯や幟など華やいだ雰囲気である。
赤い着物を着せてあるが、地蔵ではなく阿弥陀立像のように見える。外からは見えないが地蔵堂の提灯には元禄六年建立と書いてある。
 
相鉄線「天王町」から5分の橘樹神社には横浜最古の青面金剛(寛文9)があり、必見。(「保土ヶ谷の石仏」参照)

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