入門 江漢五十三次画帖の出現          1              入門2へ   入門目次へ          
15年前、広重東海道五十三次のモデルとされる江漢五十三次画帖が発見された。55枚中50枚が同じ図柄である。                
−−−周囲の広重図にカーソルを合わせて見てください。中央の江漢図が変わります。−−−


江漢図
注)上の広重図のうち、日本橋はあまり見慣れない再刻版
江漢図のいくつかは初版よりも再刻版に似ている。
江漢画帖の出現
広重東海道五十三次の中でも 雨、雪,風などの自然現象の表現、人物のユーモラスな描写が絶賛されることが多い。
10年前、発見された江漢五十三次画集が広重図のモデルであれば、広重五十三次の代表作としてとして親しまれている上図のような絵もすべて広重の発想ではなく、江漢画集をコピーしたものであり、広重への絶賛/賞賛は江漢に向けられるべきことであった。

司馬江漢は広重より50年ほど古い年代の画家。江漢東海道五十三次画帖が描かれたのは江漢最晩年の推定1813年
一方、広重五十三次は若き日の広重の出世作で1833年刊行−−ちょうど20年のへだたりがある。
したがって江漢図が真筆ならば、議論の余地なく広重図のモデルということになる。

 

司馬江漢について
江漢は生涯次々に画風を変えたことで知られている。
浮世絵−中国画−水墨画(文人画)−西洋画(油絵)−銅版画−晩年(1812)の和洋折衷の富士山

江漢は1813年に隠退し、1818年に死去するまでの5年間、二度と世に出ることはなかった。
1813引退後も絵を描き続けていたことが書簡から分かるが、隠退後の江漢の画は1枚も知られていない
晩年の江漢は、東海道53次画帖で、さらに新しい画風に挑戦したのである。

  江漢53次画集「由井」1813
これまでの江漢と画風が違うとされるが、引退後の江漢作品はこれまで知られていない。
1813年6月12日 江漢本人の書簡(抜粋)
●・・・去冬帰り(1812暮、京都からの帰途)に富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候
●この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、
その中へ日本勝景、富士皆「蘭法の写真の法」にて描き申し候、「日本始まりて無き画法」なり。
蘭法写真の法」とは「写真鏡(ドンケルカーモル)」を使った画法である。江漢は以前から写真鏡に関心を持って入手を検討していたが、晩年に近い1812年、ようやく入手し、京都から江戸に戻る旅で現地風景を写真鏡取材した。
1813年6月、江漢は事情があって引退し、更に8月ニセ死亡通知を出して失踪する。江漢画帖は1812年の写真鏡取材をもとに、失踪直後の8月〜12月に描かれたものである。
江漢の引退前後の事情が、江漢五十三次画帖の成立に深く関連している。
 
江漢の使った写真鏡(ドンケルカーモル) 
江漢画帖には写真鏡を使わなければ描けない絵が含まれている。
江漢の研究本
江漢の引退/失踪事情と引退後の江漢は、これまでの研究から抜け落ちている。

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