入門2 広重東海道五十三次の謎      2          入門3へ    入門目次へ

江戸ロマンや東海道ロマンのシンボルとして、多くの日本人に親しまれてきた「広重東海道五十三次」には昔から多くの謎があることが専門家の間で指摘されていたが、一般にはあまり知らされていない。

広重研究者の長年の努力にもかかわらず、これらの謎の解明は一向に進展せず、「広重五十三次のミステリー」として数十年間同じナゾが言い伝えられ、語り続けられてきた。

−−それぞれの画像にカーソルを合わせて見てください。異版(再刻版)、異摺り、モデルの名所図会が出ます。 
 ★この広重東海道五十三次シリーズには異版や異摺りが多いが、これまで一般向けの画集や本に紹介されることがほとんどなく、見たことのない人が多い。                      
 再刻版の謎 品川  再刻版の謎 川崎
 再刻版の謎 戸塚  再刻版の謎 小田原
 異摺りの謎 池鯉鮒 (山なしと山あり)  異摺りの謎 大津 (山なしと山あり) 
 
東海道名所図会モデルの謎 興津 (相撲取りの川越え)  東海道名所図会モデルの謎 石部 (目川の茶屋)
1)再刻版の謎
広重五十三次のうち、「日本橋」「品川」「川崎」「神奈川」「戸塚」「小田原」の6枚について、出版のわずか数ヶ月後に絵柄を描き直した改訂版に変更されており、再刻版と呼ばれる。
木版浮世絵では絵を描き直すと木版を作り直すことになり大変な手間と費用がかかる。
何故わざわざ作り直したのかこれまで納得のいく説明は得られなかった。
2)初刷りと後刷り
「大津」「池鯉鮒」には背景に山がある版とない版がある。

「@山があるのが初刷りで、A後刷りで手抜きをして山を省いた」というのが定説になっているが、この定説は間違いである。
@初刷りには山がなく−−A途中で山を入れようとして努力したが−−B技術上の理由その他で、結局山を入れることを断念したと言うのが真相である。いずれにしても、広重(保永堂)は
何故山を出したり入れたりしたのだろうか。
3)東海道名所図会モデルの謎
これまでの定説では、広重は1832年夏、「お馬献上行列」に参加して京都まで旅をし、その見聞をもとに1833年の東海道53次を仕上げたことになっている。
しかし広重五十三次(保永堂版)には、各所に東海道名所図会がモデルに使われていることが発見された。
広重は本当に東海を歩いたのだろうか。-->入門3「広重、東海道を旅せず」参照
4)写生場所の謎
箱根
広重の写生場所を突き止めようと明治大正以来多くのの研究者/新聞記者/カメラマンが現地を探訪するが結局見つからず、広重の空想の産物と結論付けることが今でも繰り返されている。
蒲原
現地には立派な「写生場所記念碑」があるにもかかわらず、地形がまるで違うことから写生場所に疑問を抱く人が多い。
この温暖な地方に雪が降ることがあったのかという疑問も含めて、広重の空想風景とされることが多かった。
★「江漢図が広重五十三次のモデルと仮定」すると、以上のような再刻版を始めとする多くの「広重五十三次の謎」があっさりと解けてしまう。
これまで広重東海道五十三次に謎が多かったのは、最も重要なモデル(江漢図)の存在を知らなかったことが原因である。
モデルの存在が分かってしまうと、もともと謎でも何でもなかったことがよく分かる。

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