入門3 「広重、東海道を旅せず」 定説の崩壊       3    入門目次へ
これまでの定説
広重は、1832年8月、お馬献上行列に参加して、京都まで旅をし、そのときの見聞を基にして1833年に、五十三次画集を完成したとされており、それが定説であった。
またこの五十三次はすべて広重のオリジナルであり、モデルはないとされていた。
その後、定説に反する新しい事実が次々に発見され、江漢五十三次画帖発見以前から、広重定説はすでに崩壊していた。
  
ただし研究者だけが知っていることで、一般向けにはほとんど知らされていなかった。
★東海道名所図会モデルの発見
昭和35年(1960)、近藤市太郎氏が広重五十三次のうち数枚が東海道名所図会(1797刊行)のコピーであることを発見した。
その後の調査で、55枚中、東海道名所図会のコピーが10数枚あることが分かっている。
広重53次「石部」1833
東海道名所図会「目川の茶屋」1797
★広重上洛説の否定
1970年、鈴木重三氏(浮世絵研究、江戸文学研究家)が、広重の上洛に疑問を呈した。

京都三条大橋は、秀吉が造った日本最古の石橋であるが、広重はそれを木製の橋として描いており、広重が実物を見ていない何よりの証拠である。広重は(東海道を旅したかどうかは別にして少なくとも京都には行っていないというものである。
1995年 江漢東海道画帖発見 真贋論争 TV放映など
★朝日新聞記事 2004年/1月23日夕刊トップ記事
    「広重、東海道を旅せず」 「石の橋桁が木に」 「26枚転用の可能性」 「他の絵と人物酷似
2004年1月、鈴木重三氏ほかが「保永堂版広重東海道五十三次」(岩波書店)を出版。朝日新聞夕刊に内容が紹介された。
広重五十三次の種本は26ヶ所確認出来る。東海道名所図会19ヶ所,続膝栗毛口絵6ヶ所,伊勢参宮名所図会2ヶ所という。
この記事で、続膝栗毛口絵(十返舎一九画)が、新たな人物モデルとして、紹介された。(下図例)
 
◎「広重、東海道を旅せず」の波紋
朝日新聞記事にも「広重が上洛しなかった可能性が更に強まった」という研究者の談話が載っている。
しかし展覧会カタログなどでは相変わらず、「お馬行列の旅とその見聞にも基づいて東海道五十三次を描いた」という記事がまかり通っている。
上洛説に代わるべき学説がなかったからである。
これまでの広重東海道五十三次研究では、すべて広重の東海道旅行に関係づけた説明がなされている。

五十三次画集や広重本には、次のようなことが表現を少し代えただけで繰り返し述べられている。

(1)個々の絵は、もちろんお馬行列に参加した東海道旅行での見聞をもとにしたものである。シリーズに正確な現地風景が含まれていても当然である。

(2)それほど売れっ子でもなかった若い広重が、五十三次55枚シリーズという大プロジェクトに抜擢起用されたのは、東海道旅行の実績を買われたためである。

(3)このシリーズで、広重が突然、前代未発の技法(内田氏の表現)を使った作品を作り始めたのは、広重の隠れた天才が始めての東海道旅行で触発されたためである。

(4)保永堂がこのシリーズで「真景=実際の風景の正確な写生」を大々的に売り物にしたのは(右図参照)、広重の東海道旅行での現地取材に自信があったからである。

(5)広重の生涯の作品の中で、結局この若き日の出世作が最高傑作とされるのは、生まれて始めての東海道旅行の印象がまだ生々しい時期の作品だからである。
    etc etc
広重53次 55枚入りセット袋
広重が東海道を旅していない」ことになると、これまでの説明/考察はすべて根拠を失い、広重東海道五十三次について、何一つ書くことがなくなってしまう。

広重定説はすでに崩壊し、広重研究は最大の危機に瀕している。
 
上記(1)〜(5)の広重の東海道旅行江漢の原画に置き換えると、すべてが説明出来てしまう。
すべて広重や広重グループ(保永堂)が江漢原作の五十三次とその原資料を入手していたから出来たことなのである。

入門目次へ

inserted by FC2 system