保土ヶ谷のまとめ        まとめ    目次へ
橋を渡った後、江漢図の家並みが8軒ほどで一旦途絶えているが、これが正確であることが明治地形図との比較で分かる。(この部分に旧水路跡があり、家並みが建てられなかった。)

江漢図「保土ヶ谷」は細かい点まで正確な現地写生である。
  広重図の丸い山は現地にない。「権太坂」などと描かれた本もあるが、位置方角がまるで違う。
東海道名所図会「浅間祠」図の転用(帷子橋から2km以上離れた場所)である。
広重は京都には行っていない。 保土ヶ谷までは来ている。

帷子橋を渡ってすぐの場所に「二八そば」の看板が描いてあることから、広重が保土ヶ谷を実見していることが分かる。
この看板は江戸名所図会(1833年刊行)には描いてあるが、江漢図には描いてない。
 
 
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