06戸塚 7.道しるべ            7 まとめ    目次へ
鎌倉道道しるべの謎。筆者がこの問題に踏み込むきっかけになったテーマであり、TVでもよく取り上げられるのでまとめておく。
   江漢図B1が広重図Cを単純コピーしただけのものなら、こうはならない。/江漢図は現地の写生である−−という初期の議論である。
 
     A 妙秀寺          B1 江漢図            B2
 
     C 広重図         D 日立前
広重「戸塚」吉田橋のたもとにあった鎌倉道みちしるべは、近くの妙秀寺に移設保管されている。
地元の郷土研究では、字体や形が違うことから、妙秀寺は広重の道しるべとは違うのではないかという疑問が指摘されていた。

この話は美術界にも伝わり、昭和36年近藤市太郎「世界美術全集別巻」に、いきさつが記されている。
昭和37年の徳力富太郎氏「東海道昔と今」では、「親の仇に巡り会ったような心境」で妙秀寺の道しるべと対面するが、石碑の雰囲気が違うことで失望する。
★江漢図の道しるべB1は、字体も塔の形も妙秀寺Aとよく似ている。
B1は写真→印刷→写真なので文字がぼけているが、原図ではB2のように読めた。上部の傷まで写されているように見える。
右あわしま道」の部分は、現在石碑に残っていないが、多分臨時に浅く彫られた後刻で、江漢の時代には読めたが、その後摩滅したものと思われる。
吉田橋を右折すると、大善寺に淡島神社があり、小さな祠だが婦人病に卓効があった。
★戸塚には、広重図とまったく同じ字体の道しるべが、別な場所(現在は日立前)にある。
広重は場所を間違えて描いた可能性がある。

戸塚宿には、東海道と鎌倉道との分岐点がAB2ヶ所あり、両方に大きな道しるべがあった。

地元では、吉田橋からの道Aは川土手を通る単なる間道(近道)。
分岐点Bが正規の鎌倉道と考えていた。(相模国風土記稿)

(仮説)
広重は保土ヶ谷から駕籠に乗り、A点で下りるつもりが、乗り過ごしてB点まで行ってしまい、そこにあった別な道しるべを写した。
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