関のまとめ           まとめ   目次へ                 
本陣作法
参勤交代の大名が泊まる本陣には、伝統的に様々な習慣や決まりがあった。
しかし本陣関係者以外には無縁な規則なので、当時で知る人は少なく、本陣作法の資料はあまり残っていない。
明治になってから小田原本陣の当主が書いた「足柄史料」がほとんど唯一の資料である。
足柄史料は、ローカルな資料なので、これを読まずに書いた本陣解説も多い;。

三田村鳶魚が、島崎藤村の「夜明け前」の考証をきびしく批判した論考が残っているが、今読み直してみると、全部ピントはずれで、鳶魚は本陣作法をまったく知らなかったことが分かる。
江戸時代考証の大家/大御所である三田村鳶魚がその程度だから、これまでの広重五十三次の本に書かれた「関」本陣の解説は、
全部間違いである。
不思議なことに、絵を見る限り、江漢/広重とも本陣作法に詳しく、上記足柄史料ともピッタリ一致している。

★江漢は、本陣当主に友人が多く、個人的に本陣に泊まることがよくあった。大名とも知り合いが多く、本陣宿泊中の大名に面会したり、老中松平定信一行が宿泊する前々日の本陣を見学に行ったりしているので、本陣作法に詳しくても不思議はない。

★一方、江戸を出たことのない広重が本陣に詳しいはずがない。多分、五十三次取材の旅の途中で、神奈川〜平塚のどこかで本陣を訪ね、江漢図を見せながら、詳しく本陣作法の説明を受けたのではないか。そうでもしないとこの正確な絵は描けない。
 
間違いのポイント
1)この場所はは街道に面した外側である。門を入った本陣の内部(中庭)と思って解説しているることが多い
  伊勢参宮名所図会「坂の下」(両図の原図)を見れば、すぐそばが街道であること分かる。

  

上図は「大名の到着出迎え」図であるが、これまでの本にはすべて「出立図」と書かれている。内と外を間違えているからそうなるのである。
2)裃を付けて帯刀した人物は、本陣当主(町人)である。武士の上役あるいは用人(庶務担当)と解説されていた。
  町人である本陣主人が帯刀
しているのは、本陣だけの特別な作法。  名字帯刀」とは別な制度である。
大名が本陣に滞在している間だけ本陣当主を家臣として臨時採用しその証として裃と刀を下賜する。家臣であるからお供の武士と同じ身分である。江漢図は本陣当主(町人)が武士と対等に応対している場面で、双方とも腰をかがめて居るのは、相手に一目置いていることを示す。
広重は本陣作法をよく知っていたが、本陣作法を知らない読者の誤解を招くことを恐れて、帯刀の有無が分からないように笠で隠し、応対の相手を本陣の使用人に変えた。
 

仙女香の発売は1824年だから、1818年没の江漢が描ける訳がない。ニセ江漢が広重の広告をうっかりコピーしたもので、江漢図がニセモノである決定的な証拠であるという説が、江漢図発見当時、美術界に広まったが、全くの間違いである。
下記の年表のように、仙女香は江漢の時代からあった化粧品である。
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