52石部 2.東海道名所図会     2    まとめ   目次へ
広重定説
昭和5年の内田実「広重」(岩波)以来、広重五十三次は完全なオリジナルでモデルはないというのが定説の一つになっていた。

広重定説の崩壊
昭和35年、東海道名所図会「目川」が「石部」のモデルであることが発見された(近藤市太郎氏)。 広重図の副題は「目川の里」であり、30年間、誰も気がつかなかったのが不思議なくらいである。

以後東海道名所図会モデルが次々発見されて、定説の一角が崩れる。

両図比較
茶屋の建物、日除けのよしず、のれん、立木、田楽の看板、人物・・・
すべて、議論の余地のないそっくりコピーである。
背景の山だけは東海道名所図会にないが・・・この件は非常に重要  ・・・後述
 
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