E.江漢画帖の成立                         目次へ
       
 
F.広重東海道五十三次の成立
G論 広重は江漢画帖だけでなく、その原資料すべてを直接参照していると思われる。
 
★江漢は「和蘭奇巧」の挿し絵を目的に、1812年京都からの帰途、写真鏡取材をした。事情が変わり、五十三次画帖の形にまとめようとしたが、五十三次には素材が不足したので、名所図会の風景や続膝栗毛付録の人物で補った。
★広重は手に入る材料すべてを動員して東海道五十三次を作成した。内田実の定説では「モデル0%ですべて広重のオリジナル」とされていたが、いまや「モデル99%、オリジナル部分はほとんどなし」である。
もともと「江漢肉筆の東海道画帖を印刷/出版して大勢の人に見て貰う」というのが目的の企画であり、江漢原画を忠実にコピーするのが広重の仕事だった。盗作/著作権侵害のような形で取り上げたり、逆に不祥事として隠蔽したりするのはピントはずれである。
★東海道五十三次と同様に、定説で「広重のオリジナル」とされている「木曾街道六十九次」には、今でもモデルが発見されておらず、100%広重のオリジナルである。東海道五十三次と木曾街道六十九次の間には4年半の月日が流れている。東海道時代の広重はモデルなしでは描けなかったが、木曾街道になると、すべてオリジナルで描けるまでに大きく成長した。
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