江漢本人の証明  0            目次へ
真贋論は、二つに分けて議論しないと混乱する。

1 広重図が江漢図のコピーであることの説明は簡単。例えば現地風景との比較だけでも証明出来る。「広重東海道五十三次は盗作か?」という問題の半分は、これで片づいたことになり、盗作と呼ぶのが適当かどうかは別にして、広重図がオリジナルではなくコピーであることは間違いない。

2 江漢図の作者が江漢本人であることの直接証明は、水掛け論になりやすく、なかなか難しい。
「本物とは思えない」など直感/感想文だけの議論になりがち。
江漢の画風や江漢自筆資料
の内容についての予備知識が必要になる。
一般の人への説明には時間が掛かり、TV番組や一般向き講演では取り上げにくい。
ここでは、★2江漢本人の作品であることの直接証明についてだけ列記する。
確証 evidence   物的証拠
A.江漢画帖の絵が、
   1813年江漢書簡の内容と一致する。
1.初冬/快晴の富士を写生(季節/天候の一致) @由井
2.写真鏡で写生 ◆曲がった町並みの遠近法

◆超広角画法

◆無名の山の形を正確に写生
A御油

B由井

C蒲原
B.画法の共通点を探す。(画法を変えても、同じ人物である以上、以前の癖が残るはず) D府中
C.本人しか知らない情報。(画帖取材で得た情報が、その後の江漢昨品に描き込まれている) E江尻
 
傍証 support evidence   状況証拠的なもの
江漢本人が関心を持った人物や画題(江漢らしい画題)が各所に見られる。
オランダ出島のインドネシア人牛飼い少年南蛮えりの武士本陣当主・・など、
 
1813江漢書簡
晩年に近い1812年、江漢は、京都に六ヶ月以上滞在していたが、江戸表の親戚(娘)から「変事」の知らせを受けて、11月21日京都発で江戸へ戻る。この京都からの帰りの旅について、山嶺主馬あて1813年6月付江漢書簡には、次のように書かれている。

去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。
この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆
蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
注)蘭法の写真の法: 写真鏡(ドンケルカーモル)による画法 
江漢は以前から写真鏡に関心を持ち、是非入手して使ってみたい。希望者にも配布したいと言っていた。(江漢書簡)
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