T.広重五十三次の包括的な謎                            目次へ
個々の絵の謎のほかに、保永堂版五十三次シリーズ全体にかかる謎や広重の生涯にかかわる謎も多い。
<包括的な謎>
●生涯の多数の作品の中で、結局この初期の保永堂版五十三次が広重の代表作/最高傑作とされるのは何故か。
  (「京都への旅の印象が生々しいうちに描いたから」と説明)

●このシリーズを始めた途端に、若い広重の才能が突然開花したのは何故か
  (「京都への旅で広重の隠れた才能が刺激された」と説明)
    
●保永堂が、新人広重を起用しただけの持ち札で、53次画集55枚という大プロジェクトに踏み切った自信はどこから来たのか。(「京都への旅の成果に期待した」と説明)

●保永堂が「真景」を売り物にし、序文に「(宿場はもとより名高い建物、海山野川草木、旅人の様子など・・・まのあたり、そこに行きたる心地して・・」と堂々と宣伝した出来たのは何故か。(「京都への旅に期待」と説明)

これまでは、いずれも「広重の旅の成果旅の刺激・・・」などとして説明されていたが、「広重、東海道を旅せず」が有力になったことですべて通用しなくなった。

江漢画帖を認めることで、「江漢画帖という優れた手本があったから」「江漢画帖とその原資料一式を入手していたから・・」としてすべて説明できる。
 
その他の広重53次の謎についても同様に、江漢画帖で説明できる。
●広重が「江漢の画法を修得し完全に消化して自分のものにしている」(内田実による)と言われるのは何故か
   →江漢図を55枚もコピーすれば、江漢の画法を自然にマスター出来るであろう。
●広重が東海道を途中までしか旅していないことは今や確定的。
  しかし「現地を見ないと描けない」正確な風景が、とびとびに、京都近くまで続くことをどう説明するのか
   →もちろん江漢図があったから描けるのである。
●東海道の大当たりのあと、広重が木曾街道への参加を4年以上も逡巡したのは何故か。
  内田実以来、保永堂との不和説で説明することが多いが
   →広重が原作のないオリジナルの木曾街道シリーズに乗り出す自信がまだなかったことが主な理由ではないか。
●ほかの広重作品には謎がないのに、保永堂版五十三次シリーズだけに、多数の謎が集中しているのは何故か。
 →広重の謎にはすべて江漢画帖が絡んでいる。江漢画帖の存在を誰も知らなかったから、すべてが謎のように見えた。
 
すべての事実を説明できる説こそが、定説である。
一つでも説明できない事実が発見されると定説は揺らぎ始め、無理矢理にこじつけた説明で切り抜けようとする。
何一つ説明出来なくなった定説に何時までもしがみついている現状は、滑稽でしかない。
 
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