江漢資料   1.江漢の富士論                目次へ
江漢は以前から、西洋画は「写真=真を写す」が目的であること、そのための道具として西洋には「写真鏡」があることを繰り返し論じている。
また、とくに富士山について、これまでの日本画の模式的な描き方を批判し、実際の富士山を見て写実で描くべきと主張している。
おらんだ俗話 西洋画法 1798
和蘭諸州、唐日本の画と異て何ニ用ユルそ
和蘭及諸国の画は筆を以て描事なし、性其物の如く描事ニで、画法八目の陰陽を画則として三面の法也、仮令ハ人の鼻を正面より描ときは、中央の高き処ハ描様なし、又丸円なる珠を描とするに、其中心の高き所を描事不能、西面の法に傲ヘバ、悉く前後遠近を分チて「俗人是を浮画と云、彼国画を技藝とせず、国用の者にして其弁用文字の上ニあり、故ニ蘭書中皆画図をなして暁しむ、
其画ことごとく真なり、唐日本の画法ニしてハ真を描く事不能、本草綱目の如き画図あれと、其形状不分、不分バ用をなさつ、我日本の人、画を臨して筆意と筆勢とを称誉、画ハ文字と違ひ形チあり、牛を描ニ牛ニ似すじで、筆意のみあらハ黒く墨を付ても牛なり、惟筆を軽払て其形ちの様なる者を描く事ニで、日本画ハ席上戯藝とす、和蘭画法と云画譜を著シ示さん
江漢「和蘭通舶」 西洋画論 1805
・・・画法は支那日本の方と異にして、容易に作ることあたわず、故知ごとくその真を模し、筆法筆勢にかかわらず、濃淡をもって凸凹遠近をなしものなり。絵を作るの器あり、名を写真鏡という.和蘭これをドンケルカーモルと呼ぶ。・・彼の国の書籍は絵をもって説くもの多し。支那日本のごとく、酒辺の一興をなし、戯技翫弄のものにあらず、実用の技にして治術の具なり・・・

             江漢が非難する日本の伝統的な富士の例と江漢の持論である写実的な富士
江漢「春波楼筆記」  富士山論、風景画論  1811
○吾国にて奇妙なるは、富士山なり。これは冷際の中、少しく入りて四時、雪,嶺に絶えずして、夏は雪頂きにのみ残りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、まことに奇観とす、・・それ故、予もこの山を模写し、その数多し。蘭法蝋油の具を以て、彩色する故に、彷彿として山の谷々、雪の消え残る処、あるいは雲を吐き、日輪雪を照らし、銀の如く少しく似たり。
吾国画家あり。土佐家、狩野家、近来唐画家(南画)あり。この冨士を写すことを知らず。探幽(狩野探幽)冨士の絵多し、少しも冨士に似ず、ただ筆意勢を以てするのみ。また唐画とて、日本の名山勝景を図すること能わず、名もなき山を描きて山水と称す。・・何という景色、何という名山と云うにもあらず、筆にまかせておもしろき様に、山と水を描き足るものなり。これは夢を描きたると同じことなり。是は見る人も描く人も一向理の分からぬと言う者ならずや。

○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし
富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。
之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて・・写真鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。唐画の如く。無名の山水を写す事なし。
ドンケルカーモル
●右図の写真機タイプとする説もあるが、上下が逆に写るのでは絵を描く道具にはならないだろう。
●「二眼レフカメラの上半分」のような構造と思われ、江漢が入手に時間がかかったのはそのためである。
●塚本カタログでは、「一眼レフからシャッター、絞り、プリズムを取り除いたものでレンズから入り、鏡に反射した映像が曇りカラスに映る。」とある。
江漢は、写真鏡を是非入手したいという書簡を残している。さらに1812年京都からの帰路、風景を写真鏡で取材し、本の挿し絵として京都の版元に送ったという記事がある。
山領主馬あて書簡 (1811以前)
・・ドンケルカーモル(写真鏡) これは絵をお習いの御方なくてはならぬもの故、製し候て上げ申つもりにて候。貴公様へも作り上可申候。
晩年の1812年に、日本で始めて写真鏡を使って東海道の風景や富士を描いたという江漢本人の書簡が残っている。
文化十年(1813 )六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申、然し十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・
小人京よりa和と申す画師を弟子にいたし江戸へ呼びよせ候処、・・真の狂人になり申し候・・それ故吾志をつぐ者なし、この度は医業をいたす者を呼び世を譲り、小子はとんと世外の人なり、目黒の方へ隠居所を作り名を改め無言道人と申候。私跡相続人は上田多膳と申候て、旧の芝神仙に居申候。

一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候(1812京都で描いた多数の富士図)
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

一. この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、
その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候
これまでの江漢研究ではこの「写真鏡で描いた」という記事について何も触れていない。「また江漢のほら話」として無視したのであろう。
江漢は1812京都からの帰路、「和蘭奇巧」の挿絵用として、始めて写真鏡を使って風景を取り込み、持ち帰った。
翌年の隠退により和蘭奇巧の出版は流れたため、1813以後、写真鏡で取り入れた風景を生かして、洋画の五十三次シリーズに仕上げたのがこの江漢画帖である。
遠景の地形や山が驚くほど正確なのは写真鏡で取り込んだため。
それまでの江漢作品と画風が違うというのがニセモノ説の根拠のほとんどすべてだが、「蘭法の写真の法−−日本始まりてなき画法」を使ったからには当然なのである。                                                       
江漢五十三次画集が作られた経過やこれまで世に出なかった事情は、1813年の江漢の隠退に深く関係する。
資料目次→江漢資料2 引退事情 を参照

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江漢の西洋画論(写実論)と作品                  
成瀬不二夫氏「江漢−その画業と生涯」に、写真家中川氏らとの議論が詳しく掲載されている。
「江漢の日頃の主張から見て、江漢作品は「写真」の精神に基づいて描かれているはず」を根拠にしたという中川氏らの主張に対して成瀬氏が反論している。江ノ島の富士山の位置の議論には関心はないが、議論の中での成瀬氏の見解には注目する必要がある。

江漢はその西洋画論や富士論の中で、絵画の目的は忠実な写実にあるとし、従来の日本画や中国画をきびしく批判しているのは事実である。しかし江漢の実際の作品にはこの理論にしたがって描かれたものがない。表向きの立場と実際の絵とはとは別で、要するに江漢は「言行不一致」というのが成瀬氏の強い意見である。
成瀬不二夫「江漢−その画業と生涯 p171  より引用
写実主義者である江漢が、実景を変更した作品を描くはずがないという中川氏の意見については、画家としての江漢に対する見解の相違というほかはないが、一応それについての筆者(成瀬)の感想を加えておこう。

『西洋画談』などの著作において、江漢がなによりも視覚的真実を尊び、不合理な表現を排する意見を開陳していることは事実である。
しかし、後に説くようにこれはあくまでも論画家としての彼の表向きの立場を示す意見であって、実技家としての実態を示すものではない。
すでにしぱしぱ述べたように、江漢は席画に代表される東洋画の趣味性を烈しく攻撃し、写実に優れる西洋画の実用性を称揚しているが、彼は晩年に至るまで伝統的な東洋画を描き、そして貴人の前での席画を試みている。
また、後に説くように彼がその画論において、絵画の実用性を重視しているとしても、今日に残る彼の多くの作品は、むしろ鑑賞画としての楽しみのために描かれている。それは彼の東洋画ばかりでなく、洋風画においても同様である。
 
大畠の意見
「江漢作品は「写真」の精神に基づいて描かれているはず」という中川氏らの意見はもっともである。
一方、これまで知られている江漢作品には@江漢の写実論を反映したものがない。A写真鏡を使った作品はない という成瀬氏の意見も当時としてはその通りであった。
上記の成瀬−中川の議論は、「写実論」を持論にしていた江漢が、写実の作品を描かないはずがないということにとどまっており、1810年以前の作品(江ノ島の富士などの油絵)を中心に議論されている。
江漢書簡で「1812年に和蘭写真の法で描いた」と言っているのに、その作品が残っていないのはおかしいという議論にまでは至っていない。(1812年以降の作品だけを議論の対象とすべきである。)
 
「江漢五十三次画帖」が発見されたことで話は一変する。

江漢五十三次は、これまでの江漢作品とは画風がまったく違う作品である。現地風景と比較すれば、江漢の持論にしたがって「写真鏡を使った写実の風景画」であることがすぐ分かる。
1813年6月江漢書簡には蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり」とある。
江漢は日頃から主張していた絵画論を、最晩年になってようやくこの作品で実現したのである。
すなわち、江漢の持論や書簡から見て、「当然あるべき作品」がやっと発見されたのに、江漢研究者はそれを見逃し/あるいは黙殺してしまったのである。
例: 写真鏡を使わないと描けない江漢五十三次「由井」
         −−とくに右下の波打ち際と下の道の俯瞰は通常の遠近法では絶対に描けない。


富士山頂の積雪状況にも注意。  写真撮影は2004/1/15正午過ぎ(旧暦換算12/20頃)  このとき4日間快晴が続いた。
(右下の岩は国道1号線工事(明治13年開通)で撤去された。山裾「下の道」の位置には、明治19年東海道線開通。・・明治になるとすぐこの風景はなくなったことにも注意。)

当時の遠近法では描けないから、後世の作品であろうというのが細野正信氏の意見−−広重図にも高度な遠近法が使われているのは何故?
当時の遠近法では描けないから、オランダ式の高度の遠近法を使ったというのが横地氏の説−−「高度な遠近法」がオランダにあったのか?
当時の遠近法では描けないから、遠近法以外の方法(=写真鏡)で描いたというのが大畠の説である。−−江漢自身が書簡でそう言っている。
1813年6月の江漢書簡「去冬帰り(1812京都からの帰り)に富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。

この時期の江漢が新たな画法(蘭法の写真の法)を試みたことが、この書簡ではっきりしている。
江漢資料の中でもっとも重要な一節を、これまでの江漢研究者が誰一人論じていないのはまことに不思議である。
江漢図には、遠近法だけでなく、初冬の富士の積雪状況と光の当たり方が見事に表現されている。江漢の持論通りである。

初冬始めて雪の降りたる景、まことに奇観とす、・・それ故、予もこの山を模写し、その数多し。蘭法蝋油の具を以て、彩色する故に、彷彿として山の谷々、雪の消え残る処、あるいは雲を吐き、日輪雪を照らし、銀の如く少しく似たり。
( 江漢「春波楼筆記」1811?  富士山論)
江漢の新たな画法による作品が世に出なかったのは、この時期に江漢の突然の隠退という不幸な出来事があり、作品を世間に公開する機会を失ってしまったことによる。江漢の隠退事情の解明が深く関連する。→別項 江漢資料2 引退事情
写実を持論としながら、写実の作品を残していないことになると、本職の画業での「言行不一致」ということになり、「大ほら吹き」「大言壮語」という人物評価にもつながる。江漢はそういう意味での「ほら吹き」の汚名を晴らす機会も含めて失ってしまったことになり、「ほら吹き」だから「江漢の自筆資料は証拠にならない」という悪循環につながっている。
江漢作品の一つが葬られただけにとどまらず、江漢の人生そのものが葬り去られようとしている。

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