江漢資料  2.引退事情              目次へ
これまでの江漢研究では、 赤文字は無視され、青文字は意味を取り違えている。
   
上図の江漢研究について、中野好夫「司馬江漢考」と成瀬三千雄「司馬江漢 生涯と画業」を中心に論じる。
 引退前の江漢の日常  文化八年 京都の前年
(文化八年)八月二十七日海保青陵あて  (引退直前の江漢の日常。強気であり、引退しそうな気配はない。
・・小人如素(もとの如く)罷在候、その後は能処へ御引移被成候よし、尚々来春には上京可仕候・・・

小子も近年は西洋天経学にはなはだ通じ申し候て、毎月八日二十日会として講し申し候、京極備前之守侯世子また阿部福山の世子皆門人にて彼方へ参候論談いたし候
さて人は文字を知り足る人は多く有候えども、理を知る者は少なし。・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、・・・
●中野氏は「その後(良きところへお引き移りなされたよし)」を根拠に、江漢が京都で青陵と会った翌年文化十年としている。
  江漢全集でも中野氏と同じ文化十年説を採っている。

しかし、文化十年八月は江漢が偽死亡通知を出して失踪した時期で、「江漢は死にました」という通知と「私も大いに頑張っています」という手紙を同時に出すはずがないことに、中野氏はともかくとして、江漢研究者ならすぐ気が付くべきであった。

正解は・・・すぐ後に「来春には京都へ行く」という記述があるから、単純に京都へ行く前年の文化八年と考えればよい。

その後」はどう解釈するか:江漢は3月に青陵から最初の自己紹介程度の手紙を受け取ったが返事を出してなかった。8月に分厚い手紙を貰ったので慌てて返事を出した。−−−「3月の手紙の入手が手違いで遅れた」という見え透いた言い訳が書いてあることに注意。
3月と8月の住所が違っており、「その後引っ越した」と書いてあったので、それを受けて「その後引っ越しされたそうで・・・」と軽く挨拶しただけである。


偽作とは、文脈から見て「西洋画のまがいもの」の意味である。ニセではなくエセ。
  「江漢の生存中から偽作が出回った」と解して江漢画帖はニセモノの根拠にする人がいるが、読み間違い。
B1 文化十年六月引退
文化十年六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申、然し
十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・

小人京よりa和と申す
画師を弟子にいたし江戸へ呼びよせ候処、・・真の狂人になり申し候・・それ故吾志をつぐ者なし、 
●画の弟子が一人もいなくなったことを示す

この度は医業をいたす者を呼び世を譲り、小子はとんと世外の人なり、目黒の方へ隠居所を作り名を改め無言道人と申候。私跡相続人は上田多膳と申候て、旧の芝神仙に居申候。

一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候。
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。
一.この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候、
先は万々申残し後便可申上
・・・(引退の暗示
B2 文化十年六月引退
文化十年六月 江馬春齢あて
当春京人にてa和画師参り候,是に
画の業を伝え可申と存候処・・・肝をつぶし狂人となる・・ 
 
a和は絵の後継者。財産の後継者(娘夫婦、左内、多膳)は別な話なのに成瀬氏は混同しているらしい。
今は画も天文も究理も細工もオランダも残らずあきはて困入り申し候、
先は幸便、匆々申上候 ・・・(引退の暗示
 貸金取立ての事情
無言道人筆記93(貸し金取り立ての事情)
文化壬申の年、
神仙坐の家蔵を売り払い京に行き生涯を終わらんとて、二月二十日に東都を発し、吉野の桜を見、・・・
・・・親類どもに金子預け置きしにその金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故、俄に冬十一月二十一日に今日を発して、江戸へ帰り来るに、神仙坐の旧宅売れずそのままある故、先ず旧の如くに住みけれど、
小子老衰して業を務ること不成、故に工夫し、かねて左内というもの、
信濃の生まれにて・・(女房子供三人を抱えて困窮していたのを青山の与力春日藤左衛門が古証文の催促人に頼み)居催促して命を惜しまず取り立てけるに、藤左衛門その報いをせず、立腹して去り・・喜兵衛と言う者の金を境町の貸付日々通ひ是にて口を糊し居て、ある時吾が帰りたるを聞知り、
神仙坐へ来たりしなり。

左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それよりだんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カンと贈る也、然し是は善知には非ず。・・・・

今思うに信州辺りの人は一体生まれつき
剛直にして愚なり。京都の人と違いて事を起こすこともするなり。
小金を借りるものは身迫り如何ともすべきことなく借りる故に返す了見なし。それを快く貸す故に借りる者は誠に甘露をなめたる如し、故に一向に返す気なし。然しそれを取らずば大損をする故取り立てる。甚だ骨折りあり・・・(罪人を拷問し気絶したら気付け薬を与えてまた拷問するようなものだ。)この商売は牢屋の罪人を責めるよりは少し勝りたるか。

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無言道人筆記79

左内という男,信濃の生まれにて貌大きく、志も甚だ祖にして、万端いっこうに取り柄なし
  欄外に注あり−信濃の人はとかく一徹の短気あるなり。
・・ただ妙なるは、貸したる金を催促する事、何度も行くなり。これもまた、人の出来ぬことなり。
無言道人筆記86
・・誤ってその子の足を下駄にて蹴たるに、その子「かんにんしておくれよ」と云いけり。京に喧嘩なきは、この一事を以って知るべし。
京都人が喧嘩をしない」というのは伝説的な常識−−東海道中膝栗毛に京都人ののどかな喧嘩の場面があり、江漢も読んでいるはず。

●江漢の左内への言葉は「親類に預けて取れなくなった金100両余をお前が回収出来ればお前に預け、またお前を(回収出来た分についてだけ)跡継ぎにする。」であるが、中野氏は奇妙な解釈をし、成瀬氏も中野氏の文をそのまま引用している。

●同じ行に「百金を取り得て残り二十両」とはっきり書いてあるのに、中野氏は「回収できたかどうかどこにも書いてない。”剛直にして愚”だから多分回収できなかっただろう」とする。中野氏は文献を拾い読みしただけであることが分かる。
この資料では「剛直にして愚」は「短気で喧嘩早い」という意味に使っていることを見逃している。


●B1資料の「十が九まで相済み」は「百金を取り残り二十両」と同じ意味だが、成瀬氏は「親族との悶着が何となく落着した」としてし、したがって金銭問題と失踪とは無関係としている。

●この時期の江漢が苦労しているのは、「親族との金銭上の悶着」ではなく、「親族が引き起こした金銭トラブルの後始末」である。
親族との悶着」なら、貸金取立てだけが取り柄の左内が登場する役割はない。中野/成瀬とも混乱している。
 ニセの死亡通知 文化十年八月  
司馬無言辞世の語(偽の死亡通知)

「江漢先生
老衰して画をもとめる者有りといえども描かず。諸侯召せども往かず、蘭学天文或いは奇器を巧むことも倦みただ老荘の如きを楽しみ、・・・

鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟子となり、ついに大悟して後、病て死にけり。・・・

         文化癸酉八月 七十六翁」
「江漢は(これまで一度も)絵を頼まれても描いたことがなく、殿様から呼ばれても往ったことがない・・・・」と訳して、「江漢は大嘘つき」という研究者がいるが、「老衰して・・・」を読み落とした誤訳である。

A資料と較べると前文の意味がよく分かる。
正しい訳は「江漢は年を取ったのでこれまでやっていた絵の頒布会を止め、大名師弟への御進講も止め、蘭学の講演会も止めて、隠居生活に入り・・」であり、死亡通知の前にすべての活動から引退して隠居し・・・さらに仏門に入ったことを示す。
「頒布会も止め、御進講も止め、蘭学天文の講習会も止めて、隠居し・・鎌倉で仏門に入った」という江漢の一連の行動は、不祥事を詫びるための引責/引退にほかならない。

江漢研究者は、これまで「唐突なニセ死亡通知−失踪−最大の奇行」と言い続け、失踪は理解不可能な奇行としてきた。
真相は、高利貸し問題を世間から非難されて、引退に追い込まれたが、それでも世間は収まらず、失踪せざるを得なかったのであり、奇行でも何でもない。
E 江漢後悔記 高名の報い
江漢後悔記
われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し、名のなき者誤るといえども知る者なし。この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや。

(有名になろうとして数十年努力してきた結果、有名人であるがために、普通の人なら見逃される程度のわずかの過ちを世間に騒がれ、人生を棒に振った。何と馬鹿げた事ではないか。)意訳
●「高名であるがために普通の人なら見逃されるわずかな過ちを騒がれて失脚した」ことを悔やむ江漢の嘆きである。
江漢の晩年を探る最重要な資料だが、これまでの江漢研究に取り上げられていないのは、意味が読み取れなかったのであろう。
江漢の高利貸と貸金取立てに対する世間の弾劾を指しているのはもちろんである。

●これまでの解釈:「高名になろうとすることのむなしさに、老年になってやっと気が付いた。」と訳し、「江漢が晩年老荘思想を好むようになった」というだけの意味にとって、その重要性に気が付かなかったらしい。
「有名人はわずかの過ちを世間に騒がれる・・・」の最重要な一節を抜かして訳した誤訳である。
F 江漢の辞世  岐阜大垣 江馬家旧蔵

江漢は年が寄ったで
 死ぬるなり
  浮世に残す
   浮き絵一枚

和蘭陀画法を以て山水
遠近の風景を写せば
真に浮出でたるが如し
俗名を浮絵という。

(江漢の書いた注釈 
  注釈付きの辞世)−−−−−−−−−−−

高橋由一(天絵楼主人)
自筆添え書きがある。

此の司馬峻江漢翁自像
は濃州大垣医家江馬・・
氏所有也

明治二十年秋八月・・・
之覧 天絵楼主人
   
             A                    B現存                 C現存
  原版を筆写したもの 写真版のみ現存   Aをトレースして彩色したもの。 Aを元に高橋由一が描いた
    (原版、筆写版とも行方不明)              (天理図書館蔵)           
 油絵肖像画(東京芸術大所蔵)
★この辞世は、以前の研究書には取り上げられていたが、「江漢全集」から削除されている。
成瀬三千雄氏が「実物がない」ことを理由に存在を認めたがらず、それが江漢全集から削除された理由であろう。
その後の「江漢百科事展」カタログに、江漢資料ではなく、高橋由一関連資料として掲載され、辛うじて永久抹殺から免れた。
左図  高橋由一の明治二十年自画像と署名(筆跡比較)
江漢五十三次画帖の出所は、江漢辞世と同じ岐阜大垣江馬家
広重研究者は、何故江漢画帖を黙殺するのかと聞かれると「一流の研究者は出所のあいまいな物件は、研究の対象にしない」と苦しい言い訳をするが、江漢画帖は出所不明どころか、出るべきところから出たもの。
  ◎江馬春齢は晩年引退/失踪後の江漢の数少ない最後の親友の一人。
  
江漢の死後、遺作の画帖と辞世が、実直な後継者上田主膳の手で、江漢の遺言通り江馬春齢に届けられたのであろう。
ABとも大判半紙。パソコンで重ねると一致する。ABの二つ折りの横線がわずかにずれている。以上からBはAをトレースして着色したもの。
は現存していない(多分繊細で失われた)が、@Aの写真版、AAをトレースしたBの実物、BAをモデルにした油絵Cの実物が現存するのに、「俺は現物を見ていない」という理由だけで貴重な資料を抹殺するのは、研究者としてあまりにも大胆である。
江漢辞世の句を何とかして抹殺したい余程の事情があるのではないかと疑いたくなる。
 

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