これまでの江漢研究批判−−江漢原資料の読み方
江漢画帖は、江漢が1813年に引退/失踪した直後に描かれた作品であり、作品の成立に引退事情が深く関連している。
江漢の引退に至る事情を知らないと、江漢画帖が作られた背景は理解できない。
これまでの江漢研究では、「1813年に江漢が引退した」ことすら把握出来ていない。江漢原資料の読み方が杜撰である。
 
広重五十三次側からの研究では、検討すればするほど、この画集が江漢の真物であるという結論が補強される一方であり、否定材料は一つも出てこない。しかし江漢側の研究者の見解は、100%違っている。

この違いがどこから出てくるのか。
ここでは「江漢の自筆資料の読み方」を中心に、これまでの江漢研究の誤りをクローズアップしておきたい。
一言で言えば、とくに江漢の晩年の事件について江漢自身が書き残した大量の自筆資料がことごとく無視され、あるいは誤読されている。
「誤読」は読解力レベルの問題だからやむを得ないとしても、本来もっとも価値が高いはずの「自筆資料」の無視というのは、通常の学問/研究では考えられない異様な事態である。

江漢研究には伝統的に「江漢はほら吹きなので、江漢自身が書いたものでも信用出来ない。江漢の自筆資料でも取捨選択が必要」という考え方があった。つじつまが合わない場合、安易に江漢の法螺として処理してしまう伝統が災いしていると思われる。
 ★江漢研究者側の大義名分は「江漢は法螺吹きだから、自筆資料は信用出来ない。取捨選択する必要がある。」というのだが、本当に江漢は法螺吹きなのだろうか。 せっかく江漢が事情説明のために書き残した大量の資料を勝手に読み違えた上で、「江漢はほら吹き」と思い込んでいる疑いがある。
  小目次 江漢原資料の読み方

  (1)江漢の西洋画論/写真論/写真鏡

  (2)江漢の引退事情
 
晩年の江漢についての問題点は、大きく分けて上の2ヶ所である。詳細は小目次を参照。

(1)江漢は以前から「西洋画は写実である」ことを繰り返し力説し、そのための道具として「写真鏡」というものがあるとし、絵を描くために是非必要なので、是非入手して、配布したいと言っていた。
また1813年6月の江漢書簡で、写真鏡を使って日本勝景や富士を描いたことを伝えている。
問題の江漢画集は高度な遠近法や正確過ぎるくらいの山の描写から見て、明らかに写真鏡を使った絵である。

(2)江漢画集の成立には、1813年6月〜8月の一連の事件(金銭トラブル−江漢の隠退−偽死亡通知)が関係している。
一体何が起きたのかについて江漢自身が細かく記録に残し、事情を説明しているのだが、これまでの研究では読み落としや読み間違いが非常に多く、研究者は事件の真相をつかんでいない。
●大畠が問題とし、訂正を求めているのは、江漢の最晩年の出来事(1812年の京都からの帰路、1813年前半の金銭問題、1813年6月の隠退と8月の偽死亡通知/失踪以降・・・)とそれについて書かれた江漢の自筆資料の読み方だけである。
これまでの江漢研究すべてにクレームをつけているわけではない。

 

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