広重定説の成立と崩壊 1.定説の成立 目次へ | |
歌川列伝:飯島虚心 御馬行列関連の全文 | |
最初「小日本」に掲載したときは、「広重がお馬進献行列に参加したとされているが疑わしい」としていた。 平安時代に牽馬があったことは確かだが、江戸時代に八朔のお馬行列があったかどうかは怪しいと考えていたらしい。 その後の研究の結果、「江戸時代の御馬行列はあった」ことが分かったため、一転して「広重のお馬行列参加もあったらしい」ということになった。 ★もちろん、「お馬行列があったかどうか」と「広重が参加したかどうか」とは別な問題であり、広重が京都に行った証明にはなっていない。 |
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★後半、八朔の行事が詳しく書いてある。「お馬は絹はから着せて、紫の手綱を付け・・」とあるが、「御幣を立てた」とは書いてないことに注意 | |
内田実「広重」(岩波 昭和5) | |
内田実「広重」(昭和5)は広重研究者のバイブルとされている。 バイブルのニュアンス A.研究者は一度は目を通しておく必要がある。 B.神聖にして犯すべからず。「この本からはずれた異論を唱えてはならない。 筆者にとってはA.程度のニュアンスだが、 広重研究者は、B.として扱ってきたようである。−−−−−−−−−−−−−−−−−− 内田実は、「歌川列伝に書いてある」ということだけから、広重が御馬行列に参加して、その後この絵を描いたことだけは間違いないと即断している。 広重の五十三次のいくつかにお馬行列の場面が描いてあることが、その裏付けと考えたようである。 そしてさらに @天保初年の八朔のお馬行列に参加したことは間違いない。 A1834年正月の序文があり、この頃完成しているらしい。 の二つの条件から、1832年夏の御馬行列参加と断定した。 ●八朔のお馬献上行事と平安時代の駒牽をはっきり区別していないようである。 |
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内田実「広重」 より <広重が御馬献上の一行に加わって東海道を旅したことは確かである。> | |
出世作考 歌川列伝に「天保の初年広重幕府の内命を奉じ、京都に至り、八朔御馬進献の四季を拝観し、つぶさにその図を描きて上る。その往来行々山水の勝を探り深く観世留所あり云々」とある。この記事は全部をそのまま呑み込むことはできないが、天保の初年に八朔の御馬献上の一行に加わって京都に上り東海道を旅したことだけはこれによって分かる。保永堂版の東海道五十三次がこの旅行から帰って描いたものであることはいうまでもあるまい。 八朔の御馬献上とは、毎年八月朔日に禁裏において駒牽という儀式があって、江戸の将軍家より御馬を献上することが慣例になっていた。保永堂版の「藤川」には背中に御幣を立てた二頭の馬を曳いて、その前後を先箱と槍の行列が固めて行くところがある。幾年かの後に発行した中版の五十三次(佐野喜版)の池鯉鮒にも同じところが描きだしてあり、一行の道中の有様を見せたものであることは無論である。・・ |
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以下広重の旅の年を1832年と推定 要点のみ 五十三次の序文に「天保五年(1834)正月」の日付がある。画集の完結がその頃であったことには疑いがない。 天保初年とあるが、天保1年は、まだ一立斎を名乗っていなかった。 旅から帰ってすぐ制作にかかったに違いないので、天保2年ではなく、天保3年(1832)8月の旅だったであろう。 |
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天皇は神様ではないし京都御所は神社ではない。朝廷への献上品に神社の御幣を立てるものかどうかきわめて怪しい。 広重図のお馬行列に御幣が立っていることこそが、広重がお馬行列を見たこともない証拠である。 広重図のモデルはもちろん江漢図だが、江漢図のモデルは、東海道名所図会「吉田天王祭」と思われる。馬の御幣の他、長い石垣、座った見物人の共通点がある。 |
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参考:平安時代の駒牽を描いた図。金襴の布はあるが御幣は立っていない。(江戸時代の京都画家の描いた画)。 | |
内田実「広重」 より <広重東海道五十三次には種本がない。全部広重のオリジナルである。> | |
種本 広重の風景画の中に「応需」または「模写」と書いたものがある。特殊な注文によって作為したものである。 多作した風景画の全部が必ずしも一覧した場所−またはそのスケッチから出ているわけではない。例えば「諸国六玉河」の類は「本朝名所」「関東名所図会」「日本湊尽」などの某々図、殊に「六十余州名所図会」の大部分の如きは・・・ 五十三次にしても約40種類もあるほどだから、時として画題に行き詰まってか、あるいは仕事に追われてかのため・・・お茶を濁したかと思われる図も見出される。五十三次だけでなく、江戸名所画でもそうである。 広重がたまには種本を用いたであろうことを最初から想像していたので、種々な名所図会の類をかなり漁って調べてみた。 ところが保永堂版「東海道五十三次」や「木曾街道六十九次」のような大物を始め、その他の傑作と目すべきものには、まったく種本の影を見出し得ない。今後において発見することがあるかも知れないが、少なくとも現在では、自分は、広重の傑作には、操作や仮作はない−−あるいは操作や仮作の中には傑作はないと信じて疑わないつもりである。 異例に属するのが「京都名所」である。しかしこれも彼が親しくその地を踏みその空気に触れた(御馬行列に参加して京都を見たことを指す)のであるからこそ、種本とは別な芸術品となってあらわれたのであろう。 要するに、この事実は広重が実感あるいは実感の連鎖によってよく描き得た画家であって想像の画家ではなかったことのよき例証になると思う。 |
現在の総合知見 定説では、すべて広重のオリジナル(種本%)としているが、現在の知見では0% どころか 99%がコピーであることが分かっている。江漢画帖だけ否定してみても意味がない。 | |