B論  広重定説の崩壊                                  目次へ
広重が「お馬行列」に参加して東海道を旅し東海道五十三次を描いたという定説は、すでに自己崩壊している。
しかし定説に変わるべき説明が出来ないため、美術界の議論が完全に行き詰まっている。

江漢五十三次画帖を認めれば(広重は東海道を旅していないのに、正確な風景が描けたのは何故かという)問題はすべて解決する 江漢図を認めるしかないと思うのだが、広重研究者は何を考えて意味もない引き延ばしに掛かっているのだろうか。
内田実「広重」昭和5年(岩波書店)が広重定説の原本である。

昭和5年以来80年間、広重研究者はこの本と同じ内容のことを言い続けており、何一つ進歩していない。
ところがこの定説の主要部分がすでに自己崩壊し(自己崩壊: 江漢五十三次の出現で崩壊したのではない。それとは無関係にそれ以前から崩壊している)、それに変わるべき説明が何もない。

定説1.広重は1832年夏、幕府のお馬進献行列に特別参加して京都まで旅し、旅の見聞をもとに名作東海道五十三次(保永堂版)を作成した。

定説2.
広重東海道五十三次にはモデルがない。すべて広重のオリジナルである。

現在の美術界の知見−−一般には説明されないが、広重研究者の間ではすでに常識?
1.広重、東海道を旅せず

広重は少なくとも京都には行っていない。(途中まで行ったかも知れない?)

京都三条大橋(橋桁)は、秀吉が作った日本最初の石橋として知られているが、広重は木橋として描いている。
2.広重図のモデル発見。

(1)近藤市太郎氏の発見(S35年1960 平凡社世界美術全集別巻):
広重東海道五十三次には、東海道名所図会をモデルにしたものが数ヶ所ある。(後に十数ヶ所に拡大)

石部の田楽茶屋(下図)
興津「相撲取りの川越え」(モデルは安部川)etc

   鈴木重三氏の発見(S40年頃)
その後も、続々発見される広重図モデル

(1)江漢五十三次画帖の発見
1996年對中如雲「広重東海道五十三次の秘密」55枚中51枚が同じ図柄。広重図のモデルであろう。

(2)2000〜2005 大畠の発見
伊勢参宮名所図会、北斎五十三次、北斎漫画・・・も広重東海道五十三次のモデルである。

(3)鈴木重三ほか「保永堂版広重東海道五十三次」(2004岩波書店)
広重東海道五十三次の人物モデル発見: 十返舎一九「続膝栗毛」の付録口絵「道中ゆきかい振り」の人物が十数ヶ所モデルにされている。


江漢画帖を除いても、広重東海道五十三次はコピーだらけである。!!
昭和5年以来の定説では全部広重のオリジナルすなわち「モデル0%」だった。→それが「99%モデル」に変わってきた。
★これだけ事情が変わってきているのに、80年前の定説がそのまま一般向きの広重本や広重展のカタログに通用している。美術界とは不思議な世界である。
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★広重の他の作品にはモデルがほとんどないのに、このシリーズにだけモデルが集中しているのは大変不思議で、広重五十三次成立に特別な事情があったことが窺われる。
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★広重東海道五十三次を「盗作」と考え、広重を「盗作画家」と考えて、「日本美術界の不祥事」として隠蔽しようとするのは 大きな間違いである。
  →広重東海道五十三次の成立事情F論)で詳しく考えたい。
 
定説崩壊に対するこれまでの広重学者の対応

●東海道名所図会
東海道名所図会がモデルに使われていることは否定しようがないため、広重本の中に一応は書いてある。
しかし数百ページの本の中に2−3行目立たないように書いてあり、しかもそれに続いて「大した問題ではない」と強調してあるため、一般の読者は誰でも読み落としてしまう。

広重本の一例: 数百ページの本の中の次の数行の文章から「広重東海道五十三次は盗作・・・」が読み取れますか?

スケッチの他に当時の道中記の挿し絵の中から往々ヒントを得て作画している。広重風のタッチになっているので気が付かないことが多いが、東海道名所図会から数種の作品がそれを基として作画されているものがある。しかしそのことは広重の作品価値を下げる事柄ではない。あらゆる材料からヒントを得て自家薬籠中のものにすることは作家の働きである。当時の画家が先輩の残した下絵から全部作画していたことを思えば、広重の膨大な作品から少量の異色を見出しても別に不思議ではない。

55枚の中に15枚の盗作が混じっていた」のだから、定説を覆す大問題のはずであったが、美術界は「広重生涯の膨大な作品の内の数点」という言い方で過小評価し、定説を固執して修正しなかった。その後の新発見に対しても同じ姿勢をとり続け、その歪みが累積して、いまや身動きできなくなっている。

●「三条大橋」問題(「広重東海道を旅せず」問題)への対応
広重研究者はみんな知っているが、一般向け印刷物では隠蔽され続けてきた。
だから発見後45年!も経ってから「広重東海道を旅せず」が、朝日新聞の一面大見出しになるのである。

一例:
1997「広重の世界展」カタログ−−「広重のミステリー」より抜粋
このシリーズには、様々な謎があり、異版が多いことが知られている。広重は世に伝わるような東海道旅行をしたのであろうか、あるべき山が消されたり、山が現れたり、橋桁のミス、など後版が大きく異なる図などが多いのである。

広重研究者仲間では「橋桁のミス」というだけで話が通じるらしいが、一般人が読んでも何のことか皆目分からない。
その好例である。

一般向けには知らされていないことを示す一例

對中本では、様々な資料を引用して、「広重のお馬行列参加を否定」しようとしているが、最も有力な証拠である「橋桁ミス」の話が出てこない。
對中本では、広重作品にモデル/コピーの実例があるとして「阿波鳴門」や「近江八景」「難波名所図会」を引用しているが、そのものズバリの例である「東海道名所図会」モデルの話が出てこない。

對中氏の調査が不十分だったのではなく、「一般人が読んでも分からないように、ごまかして書いておく」という美術界の方針が効を奏して、いくら本を読んでも分からないように隠されていたということを示す事例である。
朝日新聞記事における広重研究者の談  意味不明なところもあるがそのまま紹介しておく。

大久保: 駿河の辺りからリアリティーが減り、風俗画の要素が増えた。後半は東海道名所図会の影響が目立ち、制作を急いだ甘さが目立つ。

鈴木重三:上洛説自体がおかしかった。知名度がすでに高かったと思い込んだのでは。
行った行かないは別次元の話で、行かずにあれだけ描いた広重はすごい。行ったから箔が付くチャチな画家ではありません。

千葉市美術館 浅野学芸課長: 現地に行かないと描けない絵があるかどうかという検証も必要だが、行かなくても描けることを(この本では)誠に丁寧に検証してある。広重が上洛しなかった可能性がはるかに強くなった。
大畠注)この本での新発見は、「道中ゆきかい振り」人物モデルだけであり、風景モデルに関する発見ではない。
したがって上記の「行かなくても描けることがまことに丁寧に検証されている」の発言とは無関係である。
広重は現地に行っていない←→しかし現地を見ないと描けない図があるという矛盾が説明できず、延々と(何十年も)「非上洛説」の議論が続いている様子が窺われる。
  「江漢図を写した」ことを認めれば一挙に解決する問題である。

★広重が行っていないことは確実。広重がいくら天才でも見たことのない山の形を正確に描ける訳がない。
  鈴木重三氏の「行かないで描くところが天才広重のすごいところ」は暴論である。


★「広重は駿河辺りまで行って引き返した」ことにしたい気持ちが見え見えだが、あいにくなことに、駿河より先の旅の後半にも現地に行かないと描けない絵 があるので紹介しておく。
     二川(駿河→遠江→三河)、石部(京都のすぐ近く) 現地写真との比較参照
すなわち江漢図を持ち出さない限り、永遠に決着が付かない。

大畠注)二川、石部の説明は少々長くなり分かりにくい。ここでは深く触れない。 →G論へ

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