C論  広重東海道五十三次の謎解き  2008年TVではC論は取り上げていない。     目次へ
以前から広重東海道五十三次には多くの謎があることが指摘されていた。
  中右瑛著「安藤広重のナゾ」(右図)によくまとまっている

昭和5年の内田実「広重」で、すでに指摘されていた謎も多いが、以来数十年間の研究にもかかわらず、謎の解明は少しも進行せず、むしろ謎が増える一方であった。
ところが、江漢五十三次を参照すると、これら新旧の謎が全部解けてしまう。
言いかえると、これまで江漢五十三次が発見されなかったため、すべてが謎のように見えただけである。

江漢五十三次画帖が、広重東海道五十三次成立に重要な役割を果たしたことが明らかであり、画帖がホンモノである何よりの証拠である。
謎解きの一部を紹介する。
異摺りの謎

「大津」「池鯉鮒」に「山がない刷り」と「山がある刷り」が存在する。

「@山がある方が初刷りで、後刷りではA手抜きをして山を省略した。」という2ステップの説明になっているが、昭和5年以来の歴史的な間違いである。

@最初山がなかった。→A何かの理由で山を追加しようとした。→Bしかし技術的/美術的に困難だったので、 山の追加を断念した。という3ステップで考えるべきである。
  <この説明と証明は長くなるので、別項に譲る>

ここでは、「山を入れたり/出したりした理由」についてだけを考えておく。
図を見れば答えは一目瞭然。
江漢図のこの位置に山が描かれているからである。

広重は、江漢図をモデルにしながらも、独自の構図を考え、山を描かなかった。
保永堂は「江漢図は正確な実景」と思い込んでいたので、「実景」を売り物にするためには、江漢図の山は描く必要があると考え、山を追加させようとした。しかし技術的に困難なことが分かったので、結局あきらめた。
以上が異刷りの謎解きである。


★江漢「池鯉鮒」の山が黒いクジラ山ではなく、「森」のように見えることにも注意


 
再刻版の謎
「日本橋」「品川」「川崎」「神奈川」「戸塚」「小田原」に再刻版の謎がある。初版刊行の3−4ヶ月後に、最初の版木を破棄して図柄を描き直してたもので、膨大な金と手間を掛けてまで図柄を変えた理由が説明できず、数十年間、謎が解けていない。

見比べて見ると、いずれも江漢五十三次の図柄と深く関わり合っていることが分かり、再刻版の謎がすべて解けてしまった。

例として「神奈川」「小田原」「川崎」を説明する。

神奈川の初版と再刻版

初版と再刻版の違いは、「屋根の勾配」だけである。再刻版の屋根の勾配は江漢図とそっくりである。

広重は江漢図をモデルにしながらも、独自の画想で、勾配の大きいメルヘン風な家並みで描いた。
保永堂はこのシリーズを「実景−現地の忠実な写生」の宣伝文句で売り出す方針だったので、広重の勝手な改変が気に入らず、江漢図の通りに描き直させた。
神奈川には、他にもいろいろな謎解きヒントがある。
広重図(1833)の小舟の列は、1833着工の岡田新田干拓工事境界を示す測量舟を広重が目撃して描き込んだものである。3−4ヶ月後の再刻版には、さらに杭の列が追加されており、干拓工事が着工していたのを広重が再度目撃したことが分かる。(※F論 広重図の成立)

江漢図(1813)に、1833年工事の小舟の列が描かれていないのは当然であるが、もし江漢図が、広重図以後に描かれたニセモノであれば、何のためらいもなく小舟が描き込まれているはずである。
(※江漢の逆アリバイ)

小田原の初版と再刻版
初版と再刻版の違いは、「箱根山の形−山の表現方法」だけである。
これまでは、「老成した広重が奇抜な画風を恥じて・・」「広重が風景の表現方法に開眼して・・」山を描き直したと言う説明しか聞かれなかった。

江漢図の山のシルエットは、広重初版と同じ形である。
ところが江漢の山は箱根連山とは似ても似つかぬ独立峰の山であり、実は相模の大山であることが分かった。

広重は江漢図の「小田原」というラベルを信じて、「箱根山」として描いてしまった。

刊行後になって、「山の間違い」に気がついたので、再刻版で箱根山らしく山を描き直した。

再刻版にはよく見ると「両子山」があり、その隣に駒ヶ岳らしい山も描かれているている。
まづ「両子山」を探すことが山並みの中から箱根山を識別するカギである。

箱根山は、江戸や鎌倉海岸からもよく見え、どこから見てもほぼ同じ形である。
広重は再刻判を描くのに小田原まで行く必要はなかったであろう。

川崎の初版と再刻版  
初版と再刻版にはほとんど違いがない。色が赤みから青みに変わるが、色を変えるだけなら、版木を変える必要はない。ほとんど唯一の違いは船頭のポーズである。

初版の「弓なりの船頭」は北斎の絵に出てくる常連である。一方再刻版の船頭は江漢図と同じポーズである。

広重東海道五十三次以前に、北斎の五十三次が8シリーズも刊行されており、広重東海道は9番手であった。
保永堂は、このシリーズを「これまでの北斎五十三次とは全く違う現地風景の実写」という宣伝文句で売ろうとしていた。一目で「北斎のコピー」と分かるものはまづいと考え、江漢図通りの船頭に描き直しさせたのであろう。
広重が大先輩北斎に心酔しており、北斎の絵から学ぼうとしていたことは、この東海道シリーズの数ヶ所に北斎のコピーが見られることからも明らかである。(※北斎と広重→H論

広重研究者たちはそのことをまったく知らないため、昭和5年内田実「広重」以来の「北斎は広重のライバル」という公式から逃れられず、2008年9月NHK放映の「秘蔵作品の明かす広重の真実」のように、広重が北斎の「桶屋の富士」をコピーしたのは、「同じ絵を描いても俺の方が上手い」というライバル意識の現れなどという奇妙な結論を出したがる。
 
総括的な謎の謎解き
個別の謎のほかに、広重東海道五十三次(保永堂版)には、「最初の五十三次が生涯の最高傑作なのは何故か」「それまで無名に近かった広重が、この作品に取りかかった途端、突然才能を発揮したのは何故か 」・・・など総括的な謎も多い。

これまで「京都までの旅の刺激によって、広重の天才が一挙に開花した」・・・など「広重のお馬行列の旅」に結びつけて、もっともらしく説明されることが多かったが、「広重、東海道を旅せず」が有力になると、これらの説明はすべて根拠を失った。

広重がこの出世作で、「いきなり才能を発揮」し、「生涯の最高傑作」を作ることが出来たのは、「江漢画帖という優れたモデルに出会えたから・・」というのが合理的な正解であろう。
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当時は広重のオリジナルではまだ売れなかった。
そのことは東海道五十三次に引き続いて保永堂から刊行された「東海道枝道シリーズ−江の島道 」3枚組(モデルがない広重のオリジナル)が全然売れず、2枚で打ち切られたことからも明らかである。

広重自身もそれをよく自覚していたので、次の保永堂「木曾街道六十九次」への参加を辞退した。
「木曾街道」には江漢図のようなモデルがなく、オリジナル勝負になるからである。
広重がようやく自信をつけて「木曾街道・・」に途中参加するのは、それから4年半も後のことである。

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