D論 「江漢本人」の証明                                      目次へ
「江漢本人」の証明 (1)        以下「証明として十分」であることを確認してください。
晩年に近い1812年、江漢は、京都に六ヶ月以上滞在していたが、江戸表の親戚(娘)から「変事」の知らせを受けて、11月21日京都発で江戸へ戻る。
この京都からの帰りの旅について、山嶺主馬あて1813年6月付江漢書簡には,次のように書かれている。

去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。

この記事は、明らかに江漢53次画帖と関連している。

書簡の内容と江漢53次画帖が一致することが証明出来れば、江漢五十三次画帖の作者は「江漢本人」が証明されたことになる。

あまりにも簡単で、あっけない証明であるが、これ以上の証明は必要なく、論理上これで十分である。

証明のポイント(書簡との一致)
証明1 「一点の雲もない初冬の富士」を写した  
証明2 「蘭法 写真の法(日本初の画法)」にて描いた
証明1 江漢画帖「由比」サッタ峠の富士

写真は、1/15日撮影の初冬の富士。江漢図の富士は、写真と積雪、雪渓、光と陰が一致しており、
@サッタ峠から、A初冬の B雲一つない快晴の日に写生したものである。
(すなわち、場所、季節、天候が書簡と一致)

江漢は11月21日に京都発、(途中道草を食いながら、絵を描く場所を探しながら旅し)、年内に江戸に帰着。
これを新暦に換算すると、ちょうど写真と同じ1/10−15日頃サッタ峠を通過していることになる。

東海道を旅しても、富士山が見えることはまれであり、まして雲一つない富士山に出会うのは奇蹟に近いことを実体験している人には、これだけで充分証明になっていると思う。

証明2 江漢画帖が写真鏡を使って描かれている証明
江漢書簡の「蘭法の写真の法」とは「写真鏡を使って描いた」という意味である。
写真鏡の説明(図) 絵を描く道具 オランダ語で「ドンケルカーモル」

江漢は以前からドンケルカーモルに関心があり、是非入手して使ってみたいと言っていた。(西洋画論、1811年友人あて書簡・・・この時点ではまだ入手出来ていない。)

江漢は1812年、ようやく京都で入手(職人に作らせた?)し、京都からの帰路初めて使ったものと思われる。

(江漢画帖「京都」の京都御所も写真鏡で描いた正確な写生。)
写真鏡で描いた絵の特長 1)山の形が正確 2)遠近法が正確

1) 正確な山の形
吉田、岡部、蒲原・・・など多数の絵について、江漢図には現地の山が正確に写生されている。(現地風景との比較で説明済み)
このような無名の山を描く場合、山の形などは正確に描かないことが多く、これだけ正確に描かれているのはむしろ異常である。
写真鏡で描かれたことの何よりの証拠である。

★江漢図が写真鏡で正確に描かれていたからこそ、あとになってカシミール図や現地風景とつきあわせることで、「写生場所」の特定が出来た。
昔の「写真鏡」、現在の「カシミール3D」という二つの道具の偶然の出会いのお陰で、「蒲原」をはじめとした各地の「現地特定」が奇跡的に成功したのである。
 
2) 正確な遠近法   @曲がった家並みの遠近法   A超広角画法
@広重図、江漢図「御油」
江戸時代にも遠近法があったが、直線の町並みや建物までが当時の限界だった。
ところが広重「御油」では、カーブした町並みの遠近法がうまく表現されている。このような遠近法は江戸時代にはなかったし、広重の生涯のその後の全作品を見ても直線の町並みだけしか描いてない。広重はどうやってこの「御油」の絵を描いたのか?

答えは簡単で、写真鏡で描いた江漢五十三次「御油」を広重がコピーしたのである。
遠近法を知らなくても写真鏡を使えば、高度の遠近法が描ける」・・美術の常識のはずである。

 
A江漢図「由井」
江漢「由比」には、足下に「下の道」と波打ち際が描かれ、超広角視野の画面が歪みなく正確に描かれている。遠近法で描いたのであれば、我々の知らない素晴らしい画法である。

「江漢がオランダ式遠近法を独学でマスターしていた」という説もあるが、このような広角画面に対応したオランダ式遠近法は多分存在しない。
(当時のオランダの風景画にも多分実例がない。)

写真鏡を使えば話は簡単で、写真鏡に写った風景をそのままトレースするだけである。
 
以上で、1813年6月江漢書簡の記事は、江漢五十三次画帖を示すものであることが証明され、「江漢画帖は江漢本人の作品」であることが証明された。
ただし、写真鏡スケッチは、1812年暮の京都からの帰路に取材したものであるが、五十三次画帖として描かれたのは、翌1813年8月〜12月、江漢が鎌倉に在住した時である。
 

 

1812年以後の江漢の年表と江漢五十三次について説明する。                 江漢原文

江漢「日本橋」
鎌倉隠住中の作品であることを示す
晩年の江漢人生と江漢図の成立                           江漢原文 引退前後の江漢

1812年、江漢は吉野桜を見たあと京都に6ヶ月以上滞在。京都が気に入って京都永住も考えていた。ところが、江戸の親戚(一人娘)から「金銭問題の事件」が起きたので至急帰ってくれと云う通知が来たため、旧暦11月21日京都発で江戸へ戻り、暮のうちに帰着した。京都からの帰路、東海道の現地で写真鏡取材しながら旅している。
江漢は、この取材をもとに1813年の8−12月に五十三次画帖を作成した。

1813年の前半1−6月は、江漢は「金銭問題」の後始末で、多忙だった。
「金銭問題とは」: 江漢は、江戸で120両の金を娘夫婦に預けて旅に出た。ところが娘夫婦は、欲を出し金利を稼ごうとして、江漢に無断で120両を利殖に回し、たちまち全額回収不能になって、江漢に助けを求めた。江漢は借金取りのプロ左内を起用し、好条件を示してで回収に当たらせ、六月までに100両の回収に成功したが、・・事態は思わぬ方向に進展する。
回収を巡るトラブルがこじれ、不祥事として江漢は世間の批判を浴び、引責引退に追い込まれる。すなわち、絵の頒布/蘭学講演会/大名子弟へのご進講など社会的な活動をすべて止めて隠居する。−−さらに鎌倉で仏門に入るが、それでも世間は納得せず、1813年8月には、有名なニセ死亡通知を出して失踪し、そのまま二度と世に出ることはなかった。

画帖の作成時期

江漢画帖の最後「日本橋」に「相州於鎌倉七里が浜」とある。
(「七里ヶ浜からの写生」という意味ではなく、「鎌倉山の書斎」で描いたという意味である。鎌倉山と七里ヶ浜は同じ場所である。)
江漢が鎌倉に隠住したのは、1813年8月〜12月だけで、同年暮れには江戸に戻っている。(1813年以外に、江漢が鎌倉で暮らした期間はない)

(追記)別項で説明するように江漢画帖には、十返舎一九「続膝栗毛」初版本(1813刊行)の付録口絵「道中ゆきかい振り」の人物が10ヶ所以上モデルに使われている。したがって1813以前の作品では有り得ない。江漢は新刊本を入手した直後の1813年後半、早速その口絵の人物を転用したことになる。
●以上から、江漢画帖は1812年京都からの帰りに写真鏡取材し、1813年8〜12月に五十三次画帖として作成されたものである。
失踪以後の江漢
1813年暮、江漢は江戸に戻って隠遁生活を続け、1818年に死去。
画帖は、世に出ることなく遺品として残され、遺言により、岐阜大垣の江馬春齢の元に送られた。
江馬家は明治20年頃、江漢の辞世と自画像が出たことで知られており、江馬春齢は引退後の江漢の数少ない親友の一人である。江漢画帖は、表向きは「出所不明」であるが、「医者の家系である岐阜の旧家」と報道されており、これは江馬家のことである。
 ★美術界では「出所不明の作品は相手にしない」として黙殺の口実に使っているが、むしろ「出るべきところから出た」と言ってよい。

●ニセ死亡通知以後の江漢絵画作品は知られていない。画帖は江漢最後の作品である。
写真鏡取材の目的
●写真鏡取材の目的は、最初は五十三次ではなかった。当時、京都の版元との間に「和蘭奇巧」という本の出版話が進んでいた。本の中に、写真鏡を使った風景画を挿し絵として入れることが決まっており、そのための取材であった。(書簡参照)

1813年に起きた江漢の引退/失踪の一連事件で、出版話も流れ、無駄になった写真鏡取材を活用して、53次画帖が作られた。本来五十三次が目的ではなかったため、55枚にするには写真鏡取材の数が不足したと思われる。江漢画帖に東海道名所図会などからの転用が混じっているのはそのためである。

江漢画帖には、石巻山、舘山寺、大山など東海道からかなり外れた風景が含まれている。
 @江漢の本来の取材目的が、東海道五十三次ではなかった。(書簡では「日本勝景、富士」と言っている。)
 A取材のために道草を食いながら江戸へ戻ったことが分かる。
◇江漢画帖の成立事情が分かったことで、これまでの疑問が解消する。

「これまでこの画帖が世に出なかったのは何故か」「他の江漢作品と画風が違うのは何故か」・・・などの「江漢画帖の謎」のいくつかは、江漢引退後の作品、江漢人生最後の作品ということで説明できる。
江漢は、生涯、次々に新しい画法に挑戦していることが知られており、最後の作品の画風が、それまでの絵と大きく違っていても不思議はない。(江漢自身、「蘭法写真の法−日本で初めての画法で描いた」と言っている。)

江漢画帖の旅の方向
広重東海道五十三次は、「江戸→京都」だが、江漢画帖は、「京都→江戸」の順で描かれているのは何故かという謎があった。(京都の出版社の出した東海道案内は「京都→江戸」だが、江漢は広重と同じ江戸市民である。)江漢図は「京都からの帰りの旅での取材」ということで、この謎も解けたことになる。

江漢本人の証明(その2)   江漢の「富士論」と写実的な「由井の富士」
「江漢画帖が江漢本人の作である」ことの別な角度からの証明である。

日本には、古来、富士山の絵は多数あるが、伝統的に「模式的」に描かれることがほとんどで、写実で描かれた富士はほとんどない。
江漢は以前から「富士論」「西洋画論」の中で、「伝統的」な富士の絵をを厳しく批判していた。(それにもかかわらず、写実的な江漢の冨士はこれまで発見されておらず、それが「江漢はホラ吹き」という人物評価につながっていた。)
(さらには「江漢はホラ吹きであるから、江漢自筆資料であっても、信用する必要はない。」という江漢研究の基本方針にもつながる。)

江漢画帖の「由井」は、驚くほど写実的な富士で、新雪に当たる光と陰や雪渓まで見事に表現されている。・・・江漢は、最晩年になって、これまでの持論(富士論、西洋画論)をこの画帖でようやく体現した。江漢は「ホラ吹き」ではなかったことになる。

江戸時代およびそれ以前を通じて、実際の富士をこれだけ正確に写生した写実的な富士図は、他にないのではないかと思われる。日本絵画史上、非常に重要な富士図である。
  ★日本で唯一の写真鏡画  ★日本で唯一の写実的な富士

  原文資料: 江漢の西洋画論/富士論 

注意 この資料では、江漢図「由井」を4ヶ所で議論しているが、それぞれ全く別な意味で引用している事に注意。

 @現地風景との比較・・広重図より現地風景に近い・・・「広重図のコピーではない」証明
 A江漢書簡の「雲一つない初冬の富士」に相当・・・・・「書簡の内容=江漢画帖と一致」の証明 季節/天候/場所
 B正確な遠近法=江漢書簡「写真の法」の証明・・・・・「書簡の内容=江漢画帖と一致」の証明 画法
 C日本の絵画史上珍しい写実的な富士・・・・・「江漢の富士論の体現→本人の証明」
 
広重五十三次研究批判 (今後の広重研究)

広重五十三次研究では、定説が崩れ、「広重、東海道を旅せず」が、決定的になりつつある。定説に代わる資料として、今後の広重五十三次研究には、この江漢の写真鏡スケッチ/江漢画帖が不可欠である。

1)現地を見ないと描けない正確な風景
「広重、東海道を旅せず」はすでに常識。しかし一方、「広重図に、現地を見ないと描けない正確な風景が2−3存在する」ことが、ジレンマになって、「広重上洛説」是非の議論さえ、一向に進まないように見受けられる。
★大畠: 江漢の「写真鏡スケッチ」が、何かの形で関与していると考えれば、簡単に解ける問題である。 (以下「各論」を参照)

2)五十三次シリーズの企画と広重の「真景」
広重五十三次に先立って、「東海道中膝栗毛」の人気に便乗した「北斎の五十三次」が8シリーズも出ているが、それほど売れたという記録はない。
保永堂が、北斎より知名度の低い若い広重を使って、9番手の東海道五十三次大判極彩色55枚という大型商品を企画し、これまでの北斎五十三次とは全く違う「真景」として大々的に宣伝発売したからには、何か自信の元になる材料を握っていたはずである。

これまでの説明では、広重の「お馬行列の旅」の見聞に期待したとされていたが、「広重、東海道を旅せず」が決定的になった今、もはや説明が出来なくなっている。
★大畠: 保永堂は、江漢画帖とその元になった原スケッチや取材メモを全部入手していたので、自信を持って企画を進められたのである。

3)広重天才の開花?
出世作である広重東海道五十三次が、広重生涯の最高傑作であること、それまで無名に近かった広重がこの作品で一挙に天才ぶりを発揮したことについて、これまでの研究では、「お馬行列の旅の刺激」で、広重の天才が一挙に開花したというような説明になっていたが、これも「広重、東海道旅せず」で根拠を失った。
★大畠: 「江漢画帖という優れたモデルに恵まれたため・・」というのがもっとも妥当な説明であろう。

<広重オリジナルの評価>
当時はまだ、広重のオリジナルでは売れなかった。
東海道五十三次の直後刊行された東海道枝道シリーズ「江ノ島道」は広重のオリジナルだが全く売れず、3枚シリーズが2枚で打ち切られ、すでに原画が出来ていた「大山道などの枝道シリーズ」の企画も中止になったという実績がある。

東海道五十三次に引き続いて企画された保永堂の「木曾街道六十九次」への参加を広重が逡巡したことについて「広重と保永堂の不和説」もあるが、東海道と違って「木曽街道」にはモデルがないため、広重のオリジナルで売る自信が持てなかったなかったのが、一番の理由ではないだろうか。
広重が自信をつけて「木曾街道」に参加するのは、それから4年半も後のことである。

東海道五十三次の大ヒットの翌年(1834)に、広重は「浪速名所図会」十枚組、「京都名所之内」十枚組を描いているが、これらは現地取材ではなく、前者のほとんどが「摂津名所図会」のコピーであり、後者は「都名所図会」「都林泉名勝図会」からあちこちを参照していることが昔からよく知られている。(昭和5年内田実「広重」岩波書店 ですでに指摘されている。)

広重年表
1831 東都名所(幽斎がき)   ○ 風景画家としてデビュー(北斎のコピーなど)
1833 東海道五十三次      ◎ ・・・優れたモデルに恵まれて
    枝道シリーズ江ノ島    × オリジナル 全く売れず中止
1834 浪速名所図会        △ ほとんどが名所図会のコピー
    京都名所之内        △ 名所図会からの部分転用多い

1838 木曽街道六十九次     ◎ オリジナル
    (途中から参加)     「広重の世界展」カタログより

●「天才広重が盗作をするはずがない」とか「広重の隠れた天才が突如開花した」などの広重信仰/広重伝説に無理があることは、この年表だけでも分かる。

江漢研究批判

これまで述べてきたD論「ホンモノ説」は、見方を変えれば、「江漢書簡に明記されているが、これまで所在不明だった幻の江漢作品がやっと出現した」というだけの話である。これまで世に出なかった理由まで分かっている。
江漢の自筆書簡を否定しない限り、この「ホンモノ説」は否定できない。

本来ならば最初に画帖が出現した時点で、江漢研究者であれば、すぐ気がついてもよい話であった。
江漢研究者が気が付かなかったのは、「江漢はホラ吹きなので、江漢自筆資料は信用できない。−−信用しなくても良い。」というのが、これまでの江漢研究の基本方針だったからである。

★一般的には、自筆資料はもっとも信頼できる価値の高い資料である。
江漢自筆資料を信用するか/否定するかという問題であり、それが大畠説(D論)と江漢研究者との違いの分かれ目である。

1813年事件の解釈
1812年、江漢が呼び戻された「金銭をめぐるトラブル」から1813年8月の江漢失踪まで、江漢の身に一体何が起きたのか。江漢画帖の謎解きのためにきわめて重要だが、江漢研究者は正確に把握していない。

○最初の江漢研究では、「金銭をめぐる親族とのトラブル」とされていたが、最近になって「親族の起こした金銭トラブルに巻き込まれて」というニュアンスになり、大畠の解釈に近づいてきた。すなわち「左内を起用した貸し金回収」である。
ただし「結局、貸し金は回収できなかった」とされ、「回収は出来なかったが、何となく解決した」という奇妙な解説になっている。1813年6月書簡の「今以てさはりと済み申さず、しかし十が九まで相済候て、先ずまず安心は仕り候」」から来たものだが、これは「無言道人筆記」の「百金を取り得て、残り二十両になる」に相当するもの。「120両中100両回収」に成功したものの、問題全体は解決どころか、致命的な方向にこじれ始めるのである。

ニセ死亡通知事件は、「貸し金回収」とは無関係とされ、「もともと変人だった江漢晩年の究極の奇行」であり、「理解不能な行動」とされる。
わずか2ヶ月の間に起きた連続二つの事件は、一連の事件と考えるのが妥当であり、研究者の江漢資料の読み方が不十分である。

中野好夫本では、「貸し金回収」を読みとってはいるが、重要な箇所で数ヶ所、資料を読み違えており、それを引用した成瀬三千雄氏の著作でも、中野氏の読み違いを引き継いでいる。

後継者(世継ぎ)問題  当時の世継ぎは「財産の相続権」と「本人老後の扶養義務」のセットである。
1813年、江漢は金銭問題を引き起こした娘夫婦を世継ぎからはずし、「実直だけが取り柄の」医者上田多膳跡祖続人に指定して隠居した。
ところがそれとは別に、借金取りとして起用した左内に対しても「汝を世継ぎにすべし」」と提案している。
○これまで江漢研究者が一番分かりにくかったのは、江漢の後継者問題であり、読み違いが各所に見られる。
とくに江漢が「左内を世継ぎに指名した」ことが理解できていないと思われる。

左内について、江漢は「不器用で短気で何の取り柄のない(が借金取りだけは不思議にうまい)男」と人物評しており、そんな男を江漢が世継ぎに指名する訳がないのである。

大畠は、「120両のうち、左内が回収に成功した分(100両)についてだけの後継者。」と解釈している。
この100両はすぐに江漢に返す必要はなく、そのまま別な高利運用に回して金利を稼いでよい。(これだけでも好条件だが、江漢が死ぬと元金を後継者に返す必要がある。)
左内が(100両分の)世継ぎになっていれば、江漢が死ねば元金も自分のものになるので、大変な好条件である。左内が張り切って120両中100両回収に成功したのも無理もなく、張り切りすぎて債権者とのトラブルを起こした。
もちろん、江漢は、左内が稼いだ金利の一部を「ピンハネ」するのであり、そうでなければ江漢にとって回収した意味がない。
「左内を世継ぎに指名する」ことには、もう一つの効用があった。
江戸時代、法律上/道徳上、高利貸しがどこまで許されていたのか不詳だが、「金持ちが他人に融資して(名義借りの形で)運用させ、金利をピンハネする」ことは、一番の禁制だった。
養子であれば、親を扶養する義務がある。「老親の扶養料」として金利の一部を送金させるなら、文句は言われまいと思ったらしいのだが、一旦「不祥事−社会の敵」扱いされてしまえば、「きわめて悪質な脱法行為」としてさらに非難されるだけである。
左内の世継ぎについて、江漢は「・・その百金を諸々へ貸し付け、我は隠居所を建て居き、養い金毎月二かんと?贈るなり。しかしこれは善知には非ず(名案と思ったがそうではなかった。)」(無言道人筆記 乾93)と反省している。

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