E論 江漢53次画帖の成立 D論と重複するので、ここでは簡単に述べる。)        目次へ
1812年 江漢は京都に6ヶ月以上滞在し、京都の文人仲間に歓待されて楽しく暮らしていた。 
そこへ江戸の親類(一人娘)から「預かっていた金子120両を無断で利殖に流用して回収できなくなった」という変事の報が入り、11月21日京都発で江戸に戻る。

京都からの帰路、初冬の風景/快晴の富士を写真鏡で取材する。

京都の版元との間に、「和蘭奇巧」(西洋の器械道具類の図解本)の出版話が進み、その本に絵を描く道具「写真鏡」の図解と写真鏡を使った風景を挿し絵として入れることが決まっていた。

1813年 江戸に戻った江漢は、貸し金取り立てプロの左内を起用して 貸し金の取り立てにあたり、90%回収に成功するが、・・・
左内の起こしたトラブルがこじれて不祥事として世間に弾劾され、6月に引責引退に追い込まれ、頒布会、蘭学講演などすべての活動を止める。さらに鎌倉で仏門に入る。

それでも世間は収まらず、8月にはニセ死亡通知を出して失踪してしまう。

「和蘭奇巧」の出版話も流れ,江漢は無駄になった写真鏡取材を活用して東海道五十三次を作成する。

江漢画集「日本橋」に「相州於鎌倉七里ヶ浜」とある。
江漢が鎌倉に隠住したのは、1813年8月から秋までで、暮には江戸に戻っている。
江漢画集が作成されたのはこの時期すなわち、引退/失踪の直後である。

以上の経過は、江漢自筆資料(書簡、著述)に具体的に述べられており、推定や想像ではない。

 
1813年 江漢人生の激変
★旅の取材の段階では、出版本の挿し絵として、東海道沿いの名勝や風景を10数枚程度入れることを考えており、東海道五十三次までは考えていなかった。
したがって、不足分は東海道名所図会の転用などで補うことになり、画帖55枚には写真鏡で取材した正確な実景と、名所図会からの転用や想像画が混在している。

発行されたばかりの続膝栗毛口絵(1813)も、早速人物モデルとして利用された。
★江漢と写真鏡
江漢は写真鏡に強い関心を持ち、是非入手して使ってみたいと言っていたが、なかなか実現せず、京都の細工職人に作らせてようやく入手できたらしい。

★江漢図には、写真鏡で写生された実景を大胆に修正したり、当時実在しない人物を描き込んだりしたフィクションが含まれている。最後の作品に人生の思い出や思い入れを描き残したかったのであろう。

★江漢は不祥事のため、1813年の8月に引退/失踪しており、1818の死去まで世に出ることがなかった。
この画帖も世に出ることなく、遺作として残された。                                       

1818江漢死去
遺作である画帖は、(誠実だけが取り柄という)養子上田多膳夫婦により、辞世とともに数少ない親友の一人である岐阜大垣の江馬春齢の元に送られ、保管された。

辞世
江漢は年が寄ったで死ぬるなり 浮世に残す浮絵一枚
 阿蘭陀画法をもって山水遠近の風景を写せば真に浮き出でたるが如し 俗名を浮き絵という。

 
横顔の自画像 →→@高橋由一の油彩江漢像(東京芸術大所蔵) Aトレースして着色した江漢像(天理図書館所蔵)
 「岐阜大垣の江馬家所蔵」という明治20年高橋由一の自筆添え書きがある。

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