F論  広重五十三次の成立                                         目次へ
広重五十三次の序文(四方滝水)
広重ぬし其宿々はさらなり。名高う聞えたる家々、あるいは海山野川草木、旅ゆく人の様など、何くれとなく、残る隈なく写し取られたるが、目のあたり、そこに行きたる心地せられて,あかぬ所なければ、後の世にも伝へまく・

55枚セット袋のデザイン 
真景東海道五十三駅続画」とあり、真景が売り文句。
東海道名所図会や続膝栗毛口絵が広重東海道五十三次のモデルとされているが、実は最初にモデルにしたのは江漢図であり、広重はそれを再参照した。
ただし広重は東海道名所図会がモデルであることを知っており、直接参照した部分もある。
保永堂版五十三次の企画

広重東海道五十三次以前に、すでに北斎の東海道五十三次8シリーズも刊行されていたが、それほど売れていたわけではない。東海道のベストセラー「膝栗毛/続膝栗毛」も完結して13年経っている。

保永堂が、「二番煎じ」どころか「9番手」の東海道五十三次を、しかも極彩色「大判」55枚揃いで売り出すからには、それなりの動機と自信が必要だったはずである。 もちろん「江漢画帖の入手」がその動機である。
世に出ないまま埋もれていた江漢の画集が、20年後保永堂の手に入り、広重五十三次に生まれ変わる。

保永堂のセールスポイント(謳い文句)
これまでの北斎五十三次とは違う、実際の風景を描いた・・・「真景」
これまでは、広重の京都の旅の成果に期待して「真景」をセールスポイントにしたと説明されていた。しかし広重は京都に旅していないのでこの説明は成り立たない。もちろん江漢画帖を入手していたから「真景」が謳えたのである。

旅の画家として知られた江漢のしっかりした原画があるから、若手画家でもやれるだろうという判断で、まだ無名に近い新進の広重がこの大プロジェクトに起用された。

広重は、1833初めに東海道の江戸に近い部分だけを、念のため現地確認した後、1833年末までに、一気にシリーズを完成させた。広重の現地確認が証明できる場所・・・神奈川、保土ヶ谷、戸塚、平塚

広重はどこまで旅したのか
広重は京都には行っていない。しかし広重が東海道の一部を現地確認のために旅している(平塚/大磯まで?)。
平塚では高麗山の形をきちんと写生し、白富士の位置関係も正確である。
次の小田原(酒匂橋)では目の前の箱根山を間違えて大山を描いており、広重は小田原に来ていない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
しかし箱根以後も、「現地を知らないと描けない」正確な風景がトビトビに京都近くまで続いている。
江漢図をコピーしたから描けた訳であるが、江漢図を認めない限り、永遠に解けない謎として残るであろう。
広重東海道五十三次の基本原則

(1)江漢図は現地の忠実な写生であるから、原則として江漢図通りに描く。
   (広重は下手な工夫をしてはならない。)
(2)江漢から20年経過しており、現地風景が江漢図と違っている場合は現地優先で修正する。
   (例えば、神奈川台「袖ヶ浦」の干拓工事など)

●広重図には東海道名所図会や続膝栗毛の転用が多い。
これは最初に江漢がモデルとして利用し、それを広重が再コピーしたもの。

ただし広重は原画の存在を知っており、一部は原画を直接参照して詳細をコピーしている。
 (例:大津/草津の茶屋の人物など)

●江漢図には、写真鏡を使った正確な風景の中に実在しない人物などのフィクションを描き込んでいるものがあり、広重はそれを現実風景に修正している。
  (例: 日本橋(再刻版)の人物、大津の人物)

●江漢は五十三次の宿場にこだわらず、東海道を外れて道草を食っているが、広重はそれを出来るだけ53次の宿場に引き戻そうとして修正している。
そのために矛盾も生じている例もある。 (例: 二川、蒲原、吉原・・・ )

●江漢図と違う風景、江漢図にはない人物など、広重が直接モデルとして転用したものが数ヶ所ある。
とくに北斎の人物が一部でモデルとして使われているのは、いろいろな意味で重要である。
  1)北斎は広重のライバルであるだけでなく、学ぶことが多い大先輩 →H論
  2)逆アリバイ:広重は北斎コピー出来るが、江漢は北斎のコピーは出来ない。
◆広重は、江漢画集だけでなく、写真鏡の原図やメモなど関連資料一式※を入手して活用したらしい。
そう考えないと説明出来ない図がある。(二川、石部・・)  
広重図に正確な山が描かれている。江漢の山も正確だが、広重図とは場所やアングルが違うので、「江漢図を写した」というだけでは説明できない。広重は、江漢の写真鏡スケッチ/取材メモなど関連資料一式を入手して活用したのであろう。

◆続膝栗毛口絵は、広重から見ると20年前に一回出ただけの出版物だが、広重は原資料を直接参照している。
江漢図から原資料を見破ることは難しいので、関連資料として画帖と一緒に入手したものであろう。

「江漢の関連資料一式の入手」については、別項で詳細に証明  →G論

五十三次完成後、江漢画集は保永堂から江馬家に返還されたようで、最近まで江馬家に保管されていた。

 

次ページへ   目次へ

inserted by FC2 system