続膝栗毛口絵(道中ゆきかいふり)                         論考目次へ
  鈴木重三ほか「保永堂版広重東海道五十三次」(2004年岩波書店) 
1813年刊行の続膝栗毛に、読者サービスとして旅の人物群を描いた「道中ゆきかい振」(十返舎一九画)という口絵が付録として添付されており、それが広重東海道五十三次の人物モデルであることが報道された。2004年/2月朝日新聞夕刊トップ
 
江漢ホンモノ説を大々的に展開した後になって、このような基本的な重大発見が出てくると、一般には辻褄が合わなくなって、説が破綻することが多いが、幸いなことに、この発見では大畠説は微動だにせず、むしろ補強された。大畠説が正しかったことの一つの裏付けであろう。
大畠は、それ以前から江漢画帖が作製された時期を、江漢の失踪直後の1813年後半(8−12月)としていた。
   
(1813年1月〜8月の江漢は、貸し金の取り立てとそれに続くトラブルで多忙だった。)
旅好きで膝栗毛の愛読者だったであろう江漢が、本屋で買ってきたばかりの新刊本の付録を早速作品の参考に利用したものであり、広重は江漢図をコピーしただけである。

■もし広重のオリジナル利用とすると、20年も前に一度だけ発行された付録をどこからか探し出して利用したことになり、かなり無理がある。
  鈴木重三氏は国会図書館で発見したのだが、広重当時はそんな施設はない。
    朝日新聞記事で紹介された図
川崎
川崎: 後姿の武士は広重図の方が原図(続膝栗毛口絵)に近い。また江漢図にはない人物が広重図にコピーされている。広重は江漢図だけでなく、原図も直接参照していることが分かる(後述)。
 
鈴木重三氏の指摘した続膝栗毛の人物転用 (当然、江漢図にも転用されている。)
平塚
藤枝
藤沢 藤沢
袋井
鈴木氏は比丘尼が「沼津」に転用されたとするが疑問? 広重「沼津」の女性は黒髪が覗いており比丘尼ではない。
沼津 (江漢沼津は別な衣装の母娘)


広重55枚セット袋の表紙絵
続膝栗毛は、広重「沼津」ではなく、袋の表紙絵に
そっくり転用されている。
草津
保土ヶ谷
鈴木氏の指摘以外の続膝栗毛からの人物転用
浜松
掛川
二川 ごぜの特殊な髪型が江漢図に写されている。・・・江漢図が原図を直接参照している証拠である。
二川
藤沢 江漢図の橋は無人だが、広重図には属膝栗毛口絵の芸者(飯盛)が転用されている。・・・広重の直接参照
藤沢 江漢図「藤沢」の橋の上は無人
川崎/藤沢では広重が原図を直接参照している。一方、二川では江漢が原図を直接参照している。
すなわち次のような形で参照されていることが分かる。(東海道名所図会などの参照と同じパターンである。)

 ★広重は江漢図だけでなく、その人物モデルの続膝栗毛口絵も入手して両方を参照していることが分かる。(G論)
道中ゆきかい振・・・江漢/広重53次の人物モデル
 
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