北斎の東海道五十三次 (資料)                           論考目次へ
広重五十三次以前に、すでに北斎の五十三次が8シリーズ出ていたが、大して売れていなかった。
年表から分かるように、北斎五十三次は十返舎一九の膝栗毛の人気に便乗したものである。
(広重五十三次は、すでに膝栗毛の時代ではない。)


保永堂は、膝栗毛が終わって十年も経ってから、北斎よりずっと知名度の低い広重を起用して、「大判極彩色55枚揃」という大型プロジェクトを企画/実行した。結果は大当たりだったが、保永堂にはどんな勝算があったのだろうか。

●これまでは、「広重の京都旅での現地取材に期待した・・・」と説明されていたが、今や「広重の京都旅はなかった」ことが研究者の常識である。
北斎東海道は、広重五十三次のような大判ではなく、いずれも小版で色も地味である。

北斎五十三次は風景はあまりなく人物が主体である。
広重五十三次は(それまでの北斎五十三次と違って現地で写生した実景であることを謳い文句にした。
 
以下、北斎五十三次の一例を示しておく。 北斎美術館2風景画(集英社)1990 ほかより
6シリーズ 丸枠通しNo 小型ヨコ 伊勢屋利兵衛
 

 
7シリーズ 絵本駅路鈴 隷書 通しNoふりがな 中版タテ 伊勢屋利兵衛
  

  
8シリーズ 道中図譜 (冊子本) 逓信博物館蔵
 
参考: 同じ場所を描いた北斎図 2シリーズ(1804頃) と 冨士三十六景(1834頃) 保土ヶ谷境木付近
 
北斎ほどの名手でも最初は下手くそで、30年かけて少しづつ上手くなっていることがよく分かる。
ところが広重は最初の出世作が生涯最高の出来映え。何故だろう? 大天才? それとも江漢図のモデルがあったため?
 
                         「葛飾北斎 東海道五十三次」 1994岩崎出版より
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