富士の見える確率                               論考目次へ
東海道を旅したからと言って富士山が見えるとは限らない。
江戸時代の紀行文を見ても、富士が見えることはむしろ幸運、まして快晴の富士に出会うのは奇蹟に近い。
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太田南畝:改元紀行 3月「天気良し。・・サッタ峠、輿より下りて徒歩にて行く。あまた顧みるに雲深くして冨士を見ず。・・・」
清河八郎:西遊草 7月:府中発〜江尻〜サッタ峠〜蒲原〜吉原伯 (蒲原を過ぎた三件茶屋で)「ここまで曇り空にて富士山を見ること能わず
  ここにいたりてはじめて雲表にあらわれ・・・されども雲中なれば黛を散らせし如くにて・・・」
馬琴:壬戌覇旅漫録 5月 「・・・三島、沼津、吉原、サッタの間一日も冨士を見ず、府中逗留のあいだも冨士を賞するに由なし
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ところが、1812年の江漢の旅では、書簡に「府中を出てから終始(江戸へ着くまで)晴天が続き、雲一つない富士を写生した」とある。江漢の旅は初冬(旧暦の12月、新暦に直すと1月)の旅で、この時期には快晴が数日間続くことがよくある。

私がサッタ峠(下右)の写真を撮ったのは1月15日で、4日間続いた快晴の2日目だった。
別な用事でたまたま東海道線に乗っていたところ、藤沢付近であまりにも富士がきれいだったので、とっさに決断して予定を変更、そのまま東海道線に乗り続けてサッタ峠に直行して写真撮影に成功した。現地に着くまでに曇ってしまうのではないかと気が気ではなかった。
広重「由井」は、現地を見なくても描ける逆さ扇の富士。
江漢「由井」は、雪渓の状況、積雪の光と影の様子などの様子から明らかに現地写生の富士である。

もし江漢図がニセモノなら、「ニセ江漢は広重図を手にして現地に行き、実際の富士を写生した」ことになるが、現地に行っても富士が見える確率は極めて低い。

かって江漢図「藤沢」に遊行寺の黒門が描かれていることを発見し、江漢図真筆の証拠として指摘した際、ある広重研究者から「ニセ江漢が広重図を手にして藤沢に行き、現地写生した・・・という可能性もあるから、真筆の決め手に成らない」という発言があり、憤激したことがある。冨士についてはそんなことは言わせない。
藤沢なら現地に行けば何時でも遊行寺の黒門が見られる。冨士の場合は(ニセ江漢が)現地訪問しても晴れた富士が見られる確率は非常に低いのである。
由井のサッタ峠から富士が見える確率を何とか知りたいと思い、気象台に問い合わせようと思っていたところ、インターネットにズバリ知りたい答えが出ていた。サッタ峠には地元の手でライブカメラが設置されている。このカメラで2時間おきに撮った富士方向の写真が数年間分にわたって由井町のホームページに公開されていた。
広重が旅したとされる7月(新暦8月)では、快晴でも富士が見えない日が多く、見えてもほんの少しの時間帯だけである。
江漢の旅に当たる12月(新暦1月)では、一日中富士がよく見える快晴の日が多く、それが何日も続く。
これだけでも広重の「8月の旅」説は大ウソだが、江漢の初冬の旅「終始快晴が続き・・・」は気象上もその通りなのである。
 
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