江漢の自筆肖像画                               論考目次へ

1813年書簡
 
1813年ニセ死亡通知
   
江漢の辞世(本当の辞世) 肖像画付き
江漢のニセ死亡通知(1813)は有名でよく引用されるが、それとは別に本当の辞世(1818)が存在する。
写本A(写真版)

江漢は年が寄ったで死ぬるなり 
         浮世に残す浮画一枚


(本人の注釈)
和蘭陀画法を以て山水遠近の風景を写せば
真に浮出でたるが如し 俗名を浮絵という。

左行は、写本のいきさつを記した高橋由一自筆の添書き
「此司馬峻江漢翁の像は、濃州岐阜大垣医家江馬・・氏所蔵也 明治二十年秋・・・・之覧  天絵楼主人
    

高橋由一作「司馬江漢像」 
写本Aをモデルにした油絵
東京芸術大学所蔵

天理図書館蔵の江漢肖像
        (大判半紙)
パソコンで重ねると細かい点まで写本Aとよく一致する。
折り目の位置が少しずれており、写本Aを丁寧にトレースし、着色したものと思われる。
              
写本Aは「江漢百科事展」カタログ1996より
岐阜大垣の江馬家に伝わった江漢辞世を高橋由一が借りて筆写、これをもとに油絵の江漢像を描いた。
江漢辞世は、実物/写本とも失われ(戦災?)、写本Aの写真版のみ現存。
        
成瀬氏は以前から実物を見ていないと言う理由で辞世の存在を認めたがらず、そのためと思うが、江漢全集(資料集)にも収載されていない。江漢百科事展カタログには江漢資料ではなく、高橋由一の関連資料という名目で掲載されており、お陰で辛うじてその存在を知ることが出来た。
上図のように写真Aがあり、模写Bがあり、トレースCがあり、高橋由一の自筆添書まであるのに、江漢研究者が原図の存在を認めず、「江漢資料集」から削除するというのは納得出来ない。
 
高橋由一の添え書きにあるように、この辞世は岐阜大垣の医家江馬家の所蔵品。
江漢五十三次画帖も「岐阜の旧家−医者の家系」と報じられており、同じ江馬家から出たものである。江馬春齢は晩年引退(失脚)後の江漢の数少ない親友の一人で多数の江漢書簡が残っている。
二品とも、江漢の遺言で江馬家に送られたものであり、江漢画帖は「出るべき所から出た」江漢の遺品である。

江漢五十三次黙殺の言い訳「出所も分からないような江漢画帖は一流の研究者の議論の対象にならない。」(ある美術研究者)は暴言である。

江漢研究者が江漢辞世の存在を認めたがらないのは、江漢画帖真物の根拠になることを恐れているのではないかとさえ邪推される。
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