顔料鑑定批判 論考目次へ | |
2008TV番組で、折角江漢画帖という貴重なテーマを取り上げながら、後半に筆跡鑑定、顔料鑑定を挿入したため、番組全体として「証拠不十分」という印象を視聴者に与えてしまったことが残念であった。 「鑑定によって、明らかにニセモノ」という判定はありうるが、「鑑定でホンモノが証明された」という事例はなく、せいぜい「ホンモノであっても矛盾はない」という補助的な情報が得られるだけである。TV番組で中途半端に鑑定を取り上げたこと自体が間違いである。 |
|
ここでは、顔料鑑定批判を述べる。 今回TVの顔料鑑定には数ヶ所の致命的なミスが含まれている。 |
|
(1)新しい調査結果 ミュンヘン・デルナー研究所による顔料使用調査(1972)で、実際の美術品からクロム黄が検出されている。(下左図) すなわち「アリバイ崩れ」である。 TV鑑定の参考書(painting Materials)が古すぎた(1942年)ため、当然ながら最も重要な調査結果が欠落していた。 これだけで今回TVの顔料鑑定は失格である。 TVスタッフがこの調査報告のグラフを示して鑑定者に意見を求めたが、とくに関心を示さなかったという。 |
|
TV画面 「1942年発行」 |
|
(2)上限年代の定義 ある顔料が絶対に存在しない限界の年を「上限年代」と定義する。 左表、他の顔料については「発明年=上限年代」としている。 ところが、クロム黄/クロムグリーンだけは「販売開始年=上限年代」とされている。 不統一であり、明らかに間違いである。 |
|
(3)文献掲載年 1809年はクロム黄が始めて文献に載った年。 TV鑑定で「文献掲載年=発明年」と考えているのは間違いである。 特許制度が確立した現在では、発明は特許出願手続きが終わり次第、出来るだけ早く文献に公開するのが特許戦略上も正しい。しかし特許制度が不備な時代には、新発明は最大の企業秘密であり、秘密裏に企業化準備(開発)を進めて他社が追随出来ないくらい引き離したあとになってはじめて文献に公開するのが常識であったろう。 |
|
(4)発明年 クロム黄の発明年の詳細は不明であるが、1800年頃と考えるべきである。 1797年に新元素が発見され、クロムと命名された。 「クロム」とはギリシャ語で「発色=カラー」という意味であり、クロム化合物が様々に発色することが命名の時点で知られていた。事実上クロム黄化合物も1797年前後にすでに発明されていたと考えてよい。 |
|
(5)1809年の文献記事の内容 専門家の文献調査によると、1809年記事の内容は「研究所の製造設備を使って、一時的に市場にクロム黄を供給した。」というものであった。 1800の発明から1818の発売の間が開発期間である。開発期間は専ら無料サンプルを配布し、使用実績の積上げと品質評価に当たる期間である。上記の文献記事の意味は分かりにくいと思うが、「最初はビーカーで作ったサンプルを配布していたが、1809年頃にはそれでは追いつかなくなり、研究所内に仮設の製造装置※を作って数年分のサンプルをまとめて用意した」という意味である。 ※ドラム缶を半分に切った容器を下から焚き火で加熱、交代で人力で攪拌するなど |
|
注意: 以上のクロム元素の発見〜クロム黄の発明〜開発〜商品化まで、一貫して同じ人物によって行われた。 (フランスの化学者、ヴォークラン) |
|
以上から年表を整理すると TV鑑定 1809年発明--1813年江漢画帖−1818年販売開始−1818江漢死去 で江漢が使うのには無理がある。 大畠の修正 1800頃発明--開発、無料サンプル配布−−1809大量のサンプル供給−1813江漢画帖−1818販売開始-1818江漢死去 1800〜1818の間、大量の無料サンプルが配布されており、1813年までに江漢が入手するチャンスはいくらでもあった。 美術品の顔料調査でも1800〜1810の美術品からも実際にクロム黄が検出されている。 |
|
経時変化の実績 顔料や塗料の場合、経時変化の有無が重要な品質項目になる。 最初はきれいな黄色だったのが2−3年経つと黒っぽくなるというようなことが起きると顔料として実用にならない。 本格発売までに10年以上の実績調査が必要であり、開発活動の目的の一つである。 美術品にいきなり使うのは危険なので、日本で言えば神社の絵馬のような板絵に試用してもらい、湿気の多い場所、夕日の当たる場所・・様々な環境で経時変化がないという実績を積み重ねる。絵馬程度であれば、クレームが起きても代替品を納めれば済むが、美術品で顔料の変色が起きたのでは弁償しきれない。開発期間中の無料サンプル配布はそう言う目的も含んでいる。 |
|