木曾街道六十九次の謎                        論考目次へ
広重が最初の出世作で、「いきなり才能を発揮」し、「生涯の最高傑作」を作ることが出来た理由について、これまで、「京都への初旅が刺激になって、広重の隠れた才能が突然開花した」などともっともらしく解説されていた。
しかし、広重の京都旅が否定された今、この解説は成り立たない。

★「江漢画帖という優れたモデルに出会えたから・・」というのが、現時点ではもっとも合理的な解説であろう。
版元「保永堂」と広重の不和説

保永堂と広重は、東海道五十三次で空前絶後の大ヒットを飛ばした名コンビであるにもかかわらず、その後この二人はほとんど一緒に仕事をしなかった。
東海道五十三次に続く「木曾街道六十九次」には、広重でなく、英泉が起用されるが、さっぱり売れず、いつまで経っても完成しない。
4年後、ようやく広重が参加するが、「広重−保永堂」の組み合わせは「高崎」の一枚しか存在せず、今度は保永堂の方がプロジェクトから抜けてしまう。
二人はよほど馬が合わなかったらしいと言われている。(昭和5年内田実「広重」で、すでに二人の不和が暗示されている。)
東海道五十三次の絵を見ただけで、保永堂と広重の不和の原因が分かるような気がする。

保永堂は、広重が工夫したオリジナルの部分がすべて気に入らず、江漢図通りに描き直しさせている一方、江漢図が現地風景と違っている場合も描き直しさせている。この時期の広重は、気まぐれな版元保永堂の言いなりで、絵師の尊厳が認められた気配がない。描き直しを巡って、叱責/口論のような場面が何度もあったのではないだろうか。
もう一つの理由 
広重が木曾街道六十九次に参加しなかったのは、不和のほかにもう一つ重要な理由があったと考えている。

広重東海道五十三次が成功したのは、江漢画帖という素晴らしいモデルがあったからである。
しかし次の「木曾街道六十九次」は、江漢図のようなモデルがないオリジナル勝負なのである。

当時広重のオリジナルではまだ売れなかった。
東海道五十三次に引き続いて保永堂が企画した「東海道枝道シリーズ−江の島道 」3枚組(広重のオリジナル)が全然売れず、3枚シリーズが2枚で打ち切られるという出来事があった。。
広重のオリジナルが売れなかった実績について、保永堂も広重自身もよく自覚していたため、次の「木曾街道六十九次」への参加を辞退した/あるいは保永堂から声が掛からなかった。

その後の広重は模写/オリジナルの両方で風景画の修行を続け、ようやく自信をつけて「木曾街道・・」に途中参加するのは、それから4年後のことである。
次の年表からも、空白の4年間の広重の風景画の修行ぶりが分かるのではないか。
  当時の広重略年表  ◎オリジナル  ▲模写
1831 東都名所(幽斎描き) ◎
1833 東海道五十三次  ▲  江漢画帖のコピー
    東海道枝道シリーズ 江ノ島道 ◎ 売れずに2/3で中止
1834 浪花名所図会▲ 京都名所図会▲ 図会のコピー
1836 諸国六玉河   金沢八景  




1834 木曾六十九次始まる。広重参加せず
 
1837 木曾六十九次に広重参加 ◎
3枚組の予定が2枚で打ち切りになった東海道枝道江ノ島シリーズ1833 広重のオリジナル
 
4年後 広重 木曾街道六十九次の名作 1837〜

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