広重の旅 江漢の旅                           論考目次へ
(1)広重はどこまで旅したのか。別項で詳しく書いているので、ここでは簡単に述べる。

広重が京都まで旅していないことは確実で、最近の美術界もほぼ認めている。
由井のサッタ峠は、広重図そっくりと言うのが地元の宣伝なので、この辺りまで旅したことにしたいというのが美術界の願望のようだが、残念ながら無理がある。(小田原/箱根などの現地を見ていないことがはっきりしてきた。)
当時の旅は東海道を順に歩いていくしかなく、現在のように見たいところで途中下車と言うわけには行かないのである。
日本橋−品川−川崎−神奈川−保土ヶ谷−戸塚−藤沢−平塚−大磯−(酒匂川)−小田原−箱根−三島・・・
広重は京都まで旅していないが、江戸の近くだけ現地確認の旅をしたらしい。

●神奈川には、1833年着工の岡野新田干拓工事の測量舟の列が描き込まれている。
●保土ヶ谷では、二八そばの看板が描かれている。
この看板は江漢図にはなく江戸名所図会にはあるので広重の実見と思われる。
●戸塚
には、広重が二回来ていることが再刻版の風景との比較で分かる。※
●藤沢遊行寺は前年の大火による焼け跡で、広重は通過しただけで何も得られなかった。
●平塚高麗山の印象がうまく描けていることから、現地(平塚宿出口=上方見附)に来ていると判定した。
●大磯宿入口まで平塚宿出口からわずか2km。大磯宿に入ってすぐの曲がりが描かれており、ここで引き返した

広重の旅は、以上、往復三泊四日程度の取材旅と思われる。
帰路は同じ道を通らず江の島回りで、現地取材したのであろう。
                                                 (東海道枝道シリーズ 江ノ島道 参照)
大磯宿から次の小田原まではかなり遠い。小田原まで足を伸ばすと旅の日程が往復で二日長くなってしまう。
途中の酒匂川から見た箱根山を、完全に間違えている事から、広重はここまで来ていないことが分かる。
それから先には、広重が現地写生した形跡が全くない。
 
※広重の二回目の旅 再刻版の戸塚/神奈川 広重は戸塚まで2回来ている

広重は現地取材の旅をさせてもらったにもかかわらず、戸塚の風景の変化を見逃し、保永堂に叱責/非難されたらしい。
夜通し歩くような形で、戸塚までもう一度旅し再刻版で戸塚の風景を描き直した。川向こうの藪まで丁寧に描きこんでいることから、広重が意地になっていることが分かり、保永堂との確執が窺われる。
二回目の旅の途中、神奈川の干拓工事が着工/進行しているのを目撃し、神奈川再刻版には棒杭が追加されている。
蛇足
一回目の旅で、広重が戸塚の現地を見落としたのは、駕籠で居眠りして寝過ごしたのではないかと思っている。
現地の吉田橋橋詰が鎌倉道との分岐点()だが、戸塚にはもう一つ鎌倉道との分岐点があり(現在の「日立入口)()」、ここにも大きな「かまくらみち」道標があった。広重図に描かれているのは字体から見てこの道標である。地元ではこちらが正式の鎌倉道追分だったことが、「相模国風土記稿」に明記されており、追分に付き物の「高札場」もここにあった。地元の駕籠に乗って「鎌倉道の分岐点まで・・」というと、ここまで連れてこられてしまう。
江漢図の現地は東海道の一本道で、「米屋」「吉田橋」「道しるべ」「金属の灯籠」があり、歩いていれば気が付かずに通り過ぎることはない。

 
 
(2)江漢の道草旅
1812年暮の江漢の旅のコースは、江漢画帖から細かく知ることが出来る。江漢研究者が言うような「取る物も取りあえずの最小日程の旅」ではなく、東海道を離れてあちこち寄り道しながらの取材旅であったことが分かる。
取材の時点では「東海道五十三次」を考えておらず、出版予定の「和蘭奇巧」の挿し絵に使う「東海道名所」のつもりだったので、五十三次には不足した宿場があり、画帖の作成時には名所図会などで補っている。

江漢の現地取材場所特定が出来たものを、京都からの逆順でまとめる。 
   <◎印は江漢の道草/ゆっくりした取材旅を示す事例> (斜字
は名所図会がモデル
55京都54大津−53草津−52石部−51水口−50土山−49坂之下−48−47亀山-46庄野−45石薬師−44四日市-43桑名
●55京都では、京都御所と大文字山を写真鏡で写生
●52石部では、日向山をアングルを変えて2ヶ所で写真鏡写生
 
石部の日向山(その1) 
 
石部の日向山(その2) 
42宮−41鳴海−40池鯉鮒−39岡崎−38藤川−37赤坂−36御油35吉田−34二川−33白須賀−32荒井−31舞阪
●36御油では、曲がった街並みを写真鏡で写生 当時の遠近法では曲がった街並みは描けない
◎35吉田では、東海道から数kmはずれた場所で、石巻山を写真鏡で写生
●34二川では、@二川宿の長尾根を写真鏡で写生。Aさらに国境を越えた猿ヶ馬場で柏餅茶屋付近を写真鏡で写生。
●33白須賀では、変わった地形の海を写真鏡で写生
◎32荒井、31舞阪 東海道沿いの浜名湖風景ではない。10数km離れた舘山寺付近を訪ね、写真鏡で写生したらしい。
   
二川(その1)猿ヶ馬場−江漢図                    二川(その2)二川宿付近−広重図
 
白須賀の地形
30浜松−29見附−28袋井−27掛川−26日坂−25金谷−24島田−23藤枝−22岡部−21丸子−20府中19江尻18興津
 30〜23は、目立つ山のない田舎風景なので、現地取材かどうか確認できない。
●22岡部では、岡部橋から見た宇津の谷峠の山々を正確に写生。
◎30府中では、霧に包まれてなかなか晴れない徳願寺山を時間を変えて何枚も写生したらしい。府中では多分連泊。
◎19江尻は、海上から見たサッタ山三保の松原へ寄り道したあと、船便で東海道へ戻る途中の正確な写生である。
●18興津は、人物(東海道名所図会)が大きすぎて不自然だが、人物を除いた風景は意外に正確であり、写真鏡写生らしい。

府中 @江漢図の山裾を霧で隠すとカシミールと一致 Aカシミールの背後の山を霧で隠すと広重図と一致
  
 
興津 興津岩、興津川、向こうに海が見える
17由井16蒲原15吉原14原13沼津−12三島11箱根10小田原9大磯8平塚7藤沢6戸塚
●17由井  サッタ峠中道からの快晴の冨士を写真鏡写生。写真鏡作品として最高の出来ばえである。
◎16蒲原  @蒲原宿から数km手前、東海道から300mはずれた場所の山々 A別に蒲原宿付近から見た御殿山も写生。
●15吉原  左富士の地点で、右上がりの地形を正確に写生。
●14原    最も近い場所から富士と愛鷹山
●13沼津  黄瀬川橋から黄瀬川の上流を正確に写生。
●11箱根  関所を通過した直後、塔ヶ島頂上から駒ヶ岳、芦ノ湖、冨士
◎10小田原 「小田原」のラベルがあるが、実は田村の渡しから見た大山田村大山道から東海道に戻ると数kmの回り道で済む。
●8 平塚  平塚/大磯の中間点、高麗神社付近から見た高麗山の写生。稲妻型の道は旧東海道の旧道?
●7 藤沢  鳥居付近の茶屋の二階からの写真鏡。鳥居の遠近法に注意。 遊行寺の山門(黒門)が小さく描かれている。
●6 戸塚  米屋、鎌倉道道標、金属の灯籠、吉田橋が描かれる。「かまくらみち」の字体や碑面のキズは実物そっくりである。
 
蒲原(その1) 江漢図の山(高山ほか) 蒲原駅付近
 
蒲原(その2) 広重図の山(御殿山と城山) 蒲原宿(新蒲原駅) 
5保土ヶ谷−4神奈川−3川崎−2品川−1日本橋
●5 保土ヶ谷 帷子橋を越えた後の町並みが数軒で一旦途切れている。→旧版地図との対比で江漢図は正しいことが分かる。
●4 神奈川  坂の茶屋の家並みがうまく表現されているが、写真鏡では描けないはず。どんな画法を使ったのか不思議。
 
保土ヶ谷の家並み 橋を渡って右折したあと、家並みが一旦途切れる。(旧川筋)
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