東海道名所図会                              論考目次へ
昭和5年内田実「広重」より
種本私は、広重がたまには種本を用いたであろうと最初から想像していたので、種々な名所図会類をかなり漁って調べてみた。ところが東海道五十三次や木曾街道六十九次の如き大物をはじめ、その他傑作と目すべきものには、全く種本の影を見出だし得ない。もちろん今後において発見するところがあるかも知れぬが、少なくとも現在では、広重の傑作には模索や仮作はない−−あるいは模索や仮作の中には傑作はないと信じて疑わないつもりである。・・・
内田は、東海道五十三次には種本の影がないと言いきっておりそれが定説であった。
しかし今では、広重東海道五十三次には東海道名所図会に十数ヶ所の原画があることは美術界では広く知られている。
     (昭和36年近藤市太郎氏「世界絵画全集別巻」での発見)。

その後の一般向けに書かれた広重本には、東海道名所図会種本の話が一応は書いてあるのだが、申し合わせたように読んでも「広重の盗作・・・」が分からないように、ごまかして書いてあるため、一般の読者はほとんど気が付かず、「東海道名所図会モデル」を知る人が少ない。
広重本の一例  数百ページの本の中の次の数行の文章から「広重東海道五十三次は盗作・・・」はなかなか読み取れないはず。

スケッチの他に当時の道中記の挿し絵の中から往々ヒントを得て作画している。広重風のタッチになっているので気が付かないことが多いが、東海道名所図会から数種の作品がそれを基として作画されているものがある。しかしそのことは広重の作品価値を下げる事柄ではない。あらゆる材料からヒントを得て自家薬籠中のものにすることは作家の働きである。当時の画家が先輩の残した下絵から全部作画していたことを思えば、広重の膨大な作品から少量の異色を見出しても別に不思議ではない。

★「広重生涯の膨大な作品の中の数点・・・だから大騒ぎするほどのことではない」と取れる表現だが、実は「55枚中の10数点」であり、1/3が盗作なら重大事件である。事実をすり替えて過小評価し、大した問題ではないと思わせようとしている。
東海道名所図会モデルの例
 
        広重「石部」

東海道名所図会「阿倍川」  相撲取りの川越え

         広重「興津}

       広重「江尻」
最初は、東海道名所図会から数ヶ所転用と言われていたが、数年後には十数ヶ所に増えている。

上の例でも分かるように、広重東海道五十三次の種本であることは誰が見ても一目瞭然である。
 @内田実が(名所図会の類を精査したにもかかわらず)十数ヶ所をすべて見逃したことが不思議である。
 A昭和5年から昭和36年までの31年間、何十人もの広重研究者がだれ一人気が付かなかったのも不思議である。
 B転用数ヶ所が数ヶ所から十数ヶ所に増えるのに、数年間かかっていることも不思議である。

東海道名所図会が種本らしいという情報を知った上で十数ヶ所のモデルを発見するためには、私の経験では、2〜3時間もあれば十分であり、数年がかりの作業ではない。
江漢画帖問題に取り組み始めて約1年後、前記の近藤市太郎の古本を見て広重五十三次に東海道名所図会が種本になっていることを知り、江漢画帖も同じ東海道名所図会が種本になっていることを確認した。2時間ほど資料室にこもっただけで十数ヶ所のモデルが簡単に見つかった。
よく調べると、十数ヶ所以外にも、細かい人物などが絵の部品としてあちこちに使われている。
モデルかどうか、ギリギリ議論が分かれるであろう例をいくつか示す。
 
帰りの空駕籠 広重「平塚」
 
 一段高いところで応対する問屋役人 広重「藤枝」
  
広重「御油」(中央)は、江漢図(右)を写したものだが、東海道名所図会(左)も取り入れられていることが分かる。
「浮世絵で見る宿場」大畠講演より
問屋場は幕府や大名の公用の荷物を次の宿場まで送り届けるのが仕事。馬や人夫の手配が間に合わず発送が著しく遅れることがあり、激高した武士が刀を抜いて振り回す騒ぎが年に数回起きる。問屋場が一段高くなっているのはそのためで、後へ下がれば刀の届かないところへ避難できる。

問屋場の様子は広重の東海道シリーズのいくつかににうまく表現されているが、広重が参考にしたであろう問屋場の図がどこにも見つからない。
今のところ東海道名所図会「岡崎」の小さな図が唯一の参考図と思われる。(問屋場や役人がほんの一部だけ画面に覗いているのが共通点)

保永堂版 広重東海道五十三次「藤枝」

     東海道名所図会「岡崎」部分

広重 隷書東海道「石薬師」

      広重 行書東海道 「庄野」
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