アリバイと逆アリバイ                         論考目次へ     
アリバイは、弁護側だけの強力な武器である。
検察側が山のように証拠を積み上げても、アリバイが証明されれば全部つぶれて無罪になってしまう。

●逆のケースすなわち「アリバイがない」というだけでは、有罪の証拠にならない。最近の鹿児島夫婦殺人事件でも、現場に指紋が残り、アリバイがなかったにもかかわらず証拠不十分で無罪になった。
アリバイは検察側の武器にはなりにくいのである。

●アリバイはすべての証拠に優先する強力な材料である。それだけに厳密な証明が必要である。「300人を前に講演していた」のであれば完全なアリバイであるが、「夕方、駅前の雑踏の中ですれ違った。」「火曜日だったと思うが、もしかすると水曜日だったかも知れない」程度ではアリバイにならない。
推理小説では「その時間帯には警察の留置所に入っていた」というのが絶対アリバイとしてよく使われる。

仙女香」や「顔料鑑定」はアリバイの問題である。

仙女香:年月を10年以上取り違えたアリバイだったから、今となってはお笑い草である。

顔料鑑定:「1820年以前には顔料クロムイエローは絶対存在しない」というアリバイに対して、1800〜1820の美術品からその顔料が検出された(ミュンヘン・デルナー研究所1942)。

「パスポートの記録によると、事件の前後一週間、日本国内に居なかった」というアリバイに対して、「事件の前日国内で本人に会った」という確実な証言が出たのと同じだから、アリバイは完全に崩れ議論は終わりである。
●逆アリバイは有罪の証拠にならないが、連続放火事件のような場合は事情が少し異なり、「有罪」のかなり重要な心証になる。例えば、夜勤専門の容疑者が会社を休んだ夜に限って不審火が起きるなどの例である。

広重五十三次には江漢図だけでなく、江漢死後に刊行された資料(北斎五十三次など)や江漢死後の出来事(新田干拓工事)が描き込まれている。
もし江漢図にそれがコピーされていれば、仙女香事件と同じようにアリバイとなり、江漢ニセモノ説の決め手の証拠になるのだが、いずれの例についても江漢図には写されていない

一つだけの逆アリバイでは証明にはならないが、それが複数のケースで例外なしに起きている場合、連続放火事件のアリバイと同じで、江漢ホンモノ説の重要な心証につながる。

検証可能性 江漢ホンモノ説を否定するには
「科学哲学−科学的議論とは何か」という議論が最近盛んになり、その中で、「検証可能性」がよく云々される。「ある説が間違いであることを証明する手段がない」場合は、その説を議論しても意味がない。例えば「UFOは実在するか」という議論は無意味という。「UFOが実在しない」ことの証明は絶対不可能だからである。

「江漢画帖はホンモノか」という議論は意味がある。江漢画帖が(もしニセモノであれば)前記のようなアリバイを探すことで「江漢図はホンモノでない」ことを容易に証明出来るので、「検証可能性」があるからである。

現在までのところ、江漢画帖に関する有効なアリバイは一件も知られていない。科学哲学の論理によれば、少なくとも、今後アリバイが発見されるまでは江漢ホンモノ説は正しいと考えていいのである。
 
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