江漢の晩年(1) 江漢の不祥事と引退/失踪                     論考目次へ
1812〜1813の江漢 
無言道人筆記93

文化壬申の年、神仙坐の家蔵を売り払い京に行き生涯を終わらんとて、二月二十日に東都を発し、吉野の桜を見、・・・
・・・親類どもに金子預け置きしにその金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故、俄に冬十一月二十一日に今日を発して、江戸へ帰り来るに、神仙坐の旧宅売れずそのままある故、先ず旧の如くに住みけれど、小子老衰して業を務ること不成、故に工夫し、かねて左内というもの、・・・
 
1812年、吉野桜を見物し、その足で京都に行って6ヶ月以上京都にに滞在する。
江漢は江戸からの珍客としてあちこちの文人会にゲストとして招かれたり、富士山の絵を所望されて何枚も描き残したりして毎日を楽しんでいた。京都が気に入り、京都永住も考えていた。
江漢が江戸を出るときに120両の金を娘夫婦に預けた。(自宅を不動産屋に売った金?江戸を出る時から京都永住を考えていた。)

京都生活を楽しんでいた江漢に、娘夫婦から預かっていた金を無断で(高利貸し)に回し、全部回収出来なくなったので至急戻ってきて欲しいという連絡が入り、11月発で江戸へ戻る。帰りの東海道で(日本で始めて)写真鏡を使って日本勝景/富士山を写生する。
当時、京都の出版元との間に、「和蘭奇巧」(西洋の器械や道具の図解本)出版の話が進んでおり、「絵を描くための道具(写真鏡)を使って描いた風景画」を本の挿し絵として入れるのが目的だった。
 
1813年 (自宅がまだ売れずに残っていたので、とりあえず家賃を払ってそこに滞在し、)借金取りのプロ(左内)を雇って貸金回収に没頭する。左内の活躍で120両中100両の回収に成功するが、強引な取り立てによる債権者とのトラブルが高じて、江漢が世間から非難され、6月引責隠退に追い込まれる。
引退の原因を作った娘夫婦は後継者からはずされ、(実直だけが取り柄の)医者上田主膳夫婦が新たな後継者となる。
江漢は家督を譲って隠居し、すべての公の活動から引退し、さらに謝罪のため鎌倉円覚寺で仏門に入る
しかし世間はなお納得せず、江漢は有名なニセ死亡通知を発送して失踪する。
失踪後の江漢は1813年暮れまで鎌倉山に隠住、暮れに江戸へ戻ったらしい。
江漢の引退失踪で「和蘭奇巧」出版話は流れ、無駄になった写真鏡写生をもとに江漢53次画帖を作成する。
画帖の最後の「日本橋」に「相州於鎌倉七里浜」とあり、鎌倉山隠住中(1813年8〜12月)の作品と思われる。
 
1818死去まで、江漢は二度と世に出ることはなかった。
江漢画帖は遺作として遺され、養子上田主膳により遺言通り岐阜大垣の江馬春齢のもとに送られた。
 
以上が大畠の主張する江漢の晩年と江漢画帖成立のいきさつである。「和蘭奇巧」の挿し絵用の写真鏡取材が五十三次画帖に変わったというところだけは大畠の類推だが、それ以外はほとんど全部江漢の自筆資料に書いてあることである。
ところがこれまでの江漢研究者の話は、以下のようにずいぶん違っている。資料の読み違い/読み不十分である。
親類ども
江漢の資料には「親類ども」とあるだけなので、江漢研究者は「娘夫婦」とは解していてない。
しかし勝手に無断流用しておいて、その後始末を江漢に頼むというのは、親類の中でも実の娘しかないであろう。
ども」は複数を示し、多分「夫婦」のことである。一人娘なので「娘夫婦」と言ってしまうと名指し同然になるので、少しぼかして「親類ども」と書いたのであろう。
帰りの旅
江漢の帰りの旅について、成瀬氏はわざわざ「最小限の日程の旅だったであろう」と書いている。「・・・俄に・・・京都を発して・・・」を「取るものを取り合えず・・・京都から江戸に戻った」と解釈したのであろう。

しかし江漢画帖の写生場所をたどると東海道から離れた場所も多く、実際は「道草を食いながらの取材旅」だったことが分かる。15日で行けるところを30日近くかけて旅したらしい。
さらに推定すれば、江戸変事の知らせを受けて慌てて出発したのではなく、写真鏡の完成を待ち、写生に適した初冬の季節になるのを待って出発したに違いない。(江漢は以前から冨士の眺めは初冬が一番という持論であったが、初冬の東海道を旅し手冨士を写生したことはなかった。この最後の旅で初冬の冨士の写生という念願を果たしたことになる。)
俄に・・・」は「京都長期滞在の予定を変更して・・・」程度のニュアンスであろう。
120両
娘夫婦に預けた120両について、成瀬氏は「家を売るための費用」と書いているが意味不明。
「家を不動産屋に売った金」と考えると、前半の「家蔵を売り払い・・・」と後半の「旧宅売れずにそのままある故・・・」とのつじつまが合う。
    
無言道人筆記93 続き
左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それよりだんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カンと贈る也、然し是は善知には非ず。・・・・


中野好夫氏のミス

中野好夫氏は「左内が回収できたかどうかどこにも書いてない。左内は”剛直にして愚”※だから多分回収できなかっただろう」としているが、(同じ資料の同じ行に)120両中100両回収出来たとちゃんと書いてある。
 (中野氏の読み方が「斜め読み」「拾い読み」であることがよく分かる。)
成瀬氏の著作では、中野氏のこの部分の記述を数ページにわたってそのまま引用しており、とくに自分の見解はないようである。

※江漢は「剛直にして愚」を「愚鈍」の意味ではなく、「喧嘩早い」という意味に使っている。また左内の人物について「不器用でがさつで何の取り柄もないが、不思議に借金の取り立てだけはうまい。」と評している。
江漢の左内評(無言道人筆記)「がさつで不器用で何も取り柄がないが不思議に借金取りだけは上手い」「
信濃辺の人は生まれつき剛直にして愚なり。しかる故に京の人と違い、事を起こす事もするなり。」「信濃の人はとかく一徹の短気あるなり
・・・注)当時「京都の人は喧嘩をしない」という伝説があり、江漢も京都でそれを体験した。膝栗毛にも弥次喜多が京都人同志のしまらない喧嘩に出くわす場面がある。
金銭トラブルの内容
成瀬氏は「金銭を巡る親類とのトラブル・・・」と書いてあるが、これでは何が起きたのか把握できていない。
正しくは「親類の引き起こした金銭問題のトラブル・・・」であり、「親類とのトラブル」ではなく「債権者とのトラブル」である。
隠退と失踪

文化十年六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申、然し十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・

成瀬氏らは上の書簡の十が九まで相済候て、先々安心は仕候。」から、「(回収は進まなかったものの)金銭問題は何となく解決した。」としており、「金銭トラブルがこじれての隠退」があったことに気が付いていない。
「十が九まで相済候て、」は前記の「百金を取り得て今残り二十両」のことを言っているだけである。貸し金回収は成功したものの、回収時のトラブルが高じて世間に騒がれ、隠退に追い込まれたのである。

江漢研究者は当然、「金銭問題」と次の「ニセ死亡通知−失踪事件」との関係を考えていない。
したがってニセ死亡通知/失踪事件は、単に理由の分からない「変人」の行為、世間を騒がせて喜ぶ愉快犯的な行動と考えている。
金銭問題との関連については、「親類とのトラブルによる心労などが重なって、世の中が嫌になったことの一因かも知れない」としている程度である。

わずか2ヶ月の間に起きた二つの事件6月の金銭問題不祥事−隠退と8月の失踪)は、一連の事件と考えるのが当然である。
6月に不祥事の責任を取って隠退しさらに出家までしたのに、なお世間が納得せず江漢への非難が続いたため、耐えきれずに、8月ニセ死亡通知を出して失踪したのである。
江漢後悔記
われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、
名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し、名のなき者誤るといえども知る者なし。この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや。

大畠の意訳 有名になろうとして数十年努力してきた結果、有名人であるがために普通の人なら見逃される程度のわずかの過ちを世間に騒がれ、人生を棒に振った。何と馬鹿げた事ではないか。

この部分が江漢の不祥事を示している。金に不自由のないはずの江漢が高利貸しをやった上に過酷な取り立てをしたとして世間から批判され、隠退/失踪にまで追いやられたという事件のことである。

この江漢生涯の総括とも言うべき重要な記述について江漢研究者からの何もコメントがなく、資料を読み切れていないことが分かる。
実は、初期の研究では、江漢研究者はこの文章を大畠の意訳と同じように解していた。しかし「普通の人なら見逃されるような小さな過ちを有名人であるがために世間から騒がれ・・・ひどい目にあった・・」という事件が何なのか見当が付かなかったため、この文章の扱いがうやむやのままになっている。
 
江漢の不祥事  親類に無断流用され焦げついた貸金を取り返そうとして結果的に高利貸しをしたことになり非難された。
高利貸しはいつの時代でも、必要悪である。好ましくはないが、ないと困る立場の人も多いので、ギリギリの線で容認されているが、少しでも勇み足をすると、たちまち世間から袋叩きにされる立場である。
最近では、日榮商工ローンの事件があった。社員が取り立てに当たって「目玉を売れ。腎臓を売れ・・」と脅したことが、法に禁じられた過酷な取り立てとして警察沙汰になり、社長が国会喚問されるなどの事件になった。
「江戸時代の高利貸し」について詳しく知りたいと思い同名の本も読んだりしたが、まだ知りたいことの全部が分かっていない。
資料は不足気味だが、いつの時代でも同じだろうと考え、次のように推測しておく。
一般には高利貸しは悪とされ、盲人(検校)、亭主を亡くして後家など他に生きていく手段がない人にだけ容認されている。
金持ちが金を出して他人に高利貸しをさせ、金利をピンハネするのは最もタチが悪いとされる。

実際には様々な人が様々な方法で高利貸しをやっている。しかし一旦騒ぎが大きくなると「みんながやっていることだ・・」という言い訳が通用しなくなるのが不祥事である。
貸し金取り立てにはきびしい制約がある。脅迫、実力行使は禁止。凄んだり、暴力を振るったり、病人の布団をはがして持っていったりするのは多分違法である。取り立てには嘆願するしかない。盲人が仲間を大勢連れてきて、家の前で大声で「金を返してくれ」と嘆願し、債権者をいたたまれなくする方法が使われた。
 
江漢は自分ではやれないので、借金取り立てのプロ(信濃出身の左内)を雇って回収に当たらせるが、左内に本気で取り組ませるために、破格の好条件を提示したらしい。
 @回収した金はすぐ江漢に返さず、次の相手に貸して金利を稼いでよい。
 A回収した分については左内を後継者とする。すなわち江漢が死んだら元金は左内のものになる。
 Bもちろん稼いだ金利の一部を江漢がピンハネすることになり、そうでなければ江漢が回収させた意味がない。
左内は江漢の後継者(跡継ぎ)であり、跡継ぎには老親を扶養する義務がある。金利のピンハネは御法度だが、老親の扶養料として送るのであれば、文句を言われる筋合いはないというのが江漢の考えた名案であった。
好条件に左内は奮起し、120両中100両の回収に成功するが、回収不能とされていた100両を回収するには相当な無理があったはずで、債権者との間にトラブルが起きる。それがこじれて江漢の高利貸しが世間から非難されることになる。
一旦「社会の敵」扱いにされると、「ピンハネではなく老親の扶養料」という言い訳もかえってきわめて悪質な脱法行為と見られるだけである。(善知に非ず=名案と思ったがそうではなかった。)
6月江漢は、責任を取ってすべての公的な活動(蘭学講演会、大名子弟への御進講、絵の頒布会)から隠退し、鎌倉で仏門に入るが、世間はなお納得せず、8月ニセ死亡通知を各所に出して失踪する。

★これまでの江漢研究では、ニセ死亡通知は、世間を騒がせて喜ぶ愉快犯的な行為とされ、江漢の変人振りを示す代表例のように扱われているが、まったくの間違いである。
世間から不祥事を追求され、追いつめられての行為だったのである。
失踪後の江漢は、1818年の死去まで二度と世に出ることがなかった。
江漢画帖は、失踪後に描かれた遺作であり、これまで知られなかったのはそのためである。
 
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