江漢ニセモノ論                        論考目次へ
1.シリーズ物のニセモノ 
シリーズ物のニセモノは引き合わないと言われる。
例えば江漢画帖のように55枚組のニセモノを苦労して作り上げたとする。そのうち1枚でもポカ(うっかりミス)をやってニセモノが見破られると、折角作った55枚が全部パーになってしまう。
それと同じ手間で、55枚をバラで作っておけば、1枚がニセモノと見破られても、残りの54枚は使えるのである。
 
「ヒットラーの日記」というものが現れたことがあるが、間もなくニセモノであることが見破られた。
当時エジプト戦線に参加しベルリンに居なかった副官が日記に登場し、それが決め手になったという。
「ヒットラーの愛人への手紙」程度なら何とかなるが、「日記」のニセモノは最初から無理なのである。

江漢画帖でも一時「ニセモノの決定的な証拠」が見つかったという情報が美術界に流れ、江漢図ニセモノという流れを作ってしまった。江漢の死後発売されたはずの化粧品「仙女香」の広告が、江漢図「関」にコピーされているという情報である。本当なら上記のうっかりミスの好例になる。

幸いなことに仙女香の発売年の情報が誤りであり、仙女香は江漢と同時代の商品であることが明らかになった。
 ★アリバイという基本情報が崩れたにもかかわらず、ニセモノ説が訂正されずに未だに生き残っているのは不思議な世界である。

2.ニセモノ作りの動機がない
江漢ニセモノ説を採った場合、広重五十三次にそっくりな江漢画帖をしかも洋画で作った「ニセモノ作りの動機」が全く説明できないことが当初から言われていた。

ニセモノを作る目的/動機は@ニセモノで金儲け A世間を騒がせて喜ぶ愉快犯 くらいしか考えられない。

「広重−江漢」は、予想もしなかった組み合わせであり、「そんな馬鹿な・・ニセモノに決まっている」という第一印象を誰でも持ち、真贋の検討に入る以前に門前払いされてしまう。
江漢画帖の絵はこれまで知られている江漢の絵とは「まるで画風が違う」こともニセモノの第1印象を深くしている。

「江漢−広重というありそうもない組み合わせ」で「これまでの江漢作品とは違う画風」で描かれた江漢画帖(55枚組)は、もしニセモノなら、前代未聞の型破りのニセモノなのである。

画帖発見当時、コレクター福富太郎氏は次のように発言している。「・・・最初,広重の五十三次の銅版画風、一種の近代的な絵を描いて売ろうとしたが買い手が付かず、・・・ならば江漢作として売ってしまおうとした・・・」
つまり「絵が出来上がった後になって、(気が変わって)江漢の署名を入れて売ろうとしたのではないか」ということで、江漢本物の画風と似ていないことやニセモノ作りの動機が説明できないことに対する苦心の言い訳であるが、どう見ても無理がある。

3.ホンモノ証明と広重図モデルの証明
ある広重研究者の発言例
「・・・もしこれがホンモノなら大事件、美術市場の大発見!」
「広重東海道五十三次が実は江漢画帖を模写したコピーということになり、・・・広重芸術の評価が一変するという重要な問題を孕んでいる。」「・・しかしこれは江漢画帖がホンモノということが大前提である。

「江漢のホンモノであることが証明されない限り、広重のモデルであることにはならない」すなわち「江漢ホンモノの証明が最優先」という理解である。この発言は半分正しいが半分間違えている

「江漢ホンモノが証明されれば、自動的に広重のモデルも証明される」ことは確かであるが、別なアプローチとして、ホンモノ証明を後回しにして先に「江漢」図が広重図のモデルであることを証明することが可能である。
江漢ホンモノの証拠は今でも数少ないが、広重モデルの証拠は現在では何十と揃っている。
後者の方がずっと証明しやすいのである。

広重研究者にとっては、江漢の作であろうとなかろうと、広重五十三次の全モデルが発見されれば、美術界を揺るがす大事件であり、放っておくわけには行かないはずである。

一方、「広重図のモデル」が証明されれば、「江漢図は広重五十三次以前の作品である」ことが証明されたことになるから、江漢図の作者の範囲がずっと限定される。

例えばある座談会で、ある江漢研究者が「江戸時代にはなかった遠近法が使われているから、明治以降の作品であろう」と発言しているが、「広重以前」であることが証明されてしまえば、「明治の作品」という意見は通用しなくなる。
広重五十三次以前の画家で、これだけの洋画の技術を持った画家で・・・」ということで絞っていくと、結局「江漢本人」以外には該当者はいないことになってしまうのである。

「江漢の死後、形見として江漢の印を入手した江漢の弟子が、悪気を起こしてニセモノを作った・・・」という説がもっともらしく語られることもあるが、あいにくなことに、晩年の江漢には弟子は一人もいなかった
弟子にするつもりで京都から連れてきた眠和が江戸になじまず京都に帰ってしまった後の江漢書簡(1812)には「わが志を継ぐものなし=私の画業を継ぐ者が一人もいなくなった」と明記されている。

画帖発見当初、ニセモノ説側もホンモノ説側も「江漢真筆の証明」だけに議論を集中していた。

当時筆者は、ホンモノ説のグループの会に1〜2度出席し、真筆の証明は後回しにして広重モデルの証明から入るべきであることを説いたが、誰からも理解/同意してもらえず、意外に思ったことがある。
「江漢ホンモノが証明されれば、自動的に広重モデルも証明されるのだからその方が早道だ」というのである。

冤罪を証明するには、我々の手で真犯人を見つけるしかない・・・」という単純なTVミステリードラマと同じ理屈であるが、実際の刑事事件では、素人探偵が真犯人を探して立証することは困難であり、真犯人にこだわれば永遠に冤罪が証明されない。
DNA鑑定のミスで無罪が確定した最近の足利事件でもそうだが、真犯人が出て来なくても、冤罪の証明は出来るのである。

4.江漢ホンモノの直接証明
今となっては、「江漢図=広重モデル」の証拠は無数に見つかっている。(各論参照)
一方、「江漢図ホンモノ」の直接証明の材料は、画帖発見後15年経った今でも次のように数少ない

@江漢「府中」の森の描き方が、前年1812の江漢真筆「柏原の富士」の森と酷似
A江漢「由井」の構図と画風が、江漢真筆「大峰」と酷似
B江漢「江尻」の海上から写生したサッタ山の形が、1815頃の江漢西遊日記(真筆)に転写されている。
C江漢書簡「1812年京都からの帰路、写真鏡で富士ほか取材」記事
                               江漢画帖の季節/天候/場所/遠近法と一致。
このうちBは、一見地味だが、論理的には最強力の証拠である。
刑事事件で言えば、「真犯人しか知らないはずの証拠の隠し場所を自供した」に相当する。
@の証明

江漢画帖「府中」1813 と 江漢真筆「柏原の富士」1812 画風が一致
Aの証明
 
江漢図「由井」と江漢真筆「大峰のぞき岩」の相似 全体構図、三人の旅人、岩肌や樹木の表現
Bの証明
 
 1812-13 海上から見上げたサッタ山と西倉沢山
 
 1815頃 江漢自筆 西遊日記挿し絵に描き加えられたサッタ山
この風景(日本平からの富士)は江漢得意の画題で何枚もの作品があるが、最後の1枚にだけサッタ山が描き加えられている。
(もちろん、日本平から見下ろしたのでは、サッタ山はこういう形には見えない。)
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