江漢はほら吹きか                                 論考目次へ
江漢は、1813年の書簡で、1812年京都からの帰り、晴天に恵まれ、富士の絵を沢山描いた。写真鏡を使った絵を描いたと書き残しているが、これに相当する絵はこれまで知られていなかった。
普通ならば、今回の江漢画帖は「書簡にはあるが実物が見つからなかった」幻の絵がついに発見されたという簡単な話であり、誰もが納得する大発見のはずだったのである。それがどうしてこれだけ難航するのであろうか。
江漢は、西洋画談その他の著作で、これまでの日本画の模式的な富士の絵を厳しく批判し、実際の富士山を写生すべきであると繰り返し論じている。
江漢の作品の中に、当然、江漢の持論に合った作品があるはずであり、某カメラマンと成瀬氏の間に論争がかわされたが、結局「これまで知られている江漢作品には、江漢の持論に合った物がない」という成瀬氏に軍配が上がった。
   (この論戦は、成瀬氏の本にも記載)
この論争の結果、江漢は「言うこととやることが違う=言動不一致」=「口先だけのほら吹き」ということになった。
したがって江漢の自筆原稿であっても100%は信用出来ず取捨選択する必要がある。−−というのが江漢研究の基本姿勢になった。
この基本姿勢は、次の成瀬不二雄氏の一文(日本美術絵画全集「司馬江漢」 集英社)に明確に示されており、今もこの姿勢が貫かれている。
 
自説と資料が食い違っている場合、自説が間違えていると考えて悩み苦しみ、自説を練り直すのが普通である。
しかし本人の自筆資料であっても取捨選択してよいという前提で研究する場合は、食い違いがあっても「また江漢のホラか・・・」として資料の方が切り捨てられてしまい、緊張感に欠ける甘い研究になりがちである。
これまでの江漢研究には、資料の読み違い/意味の取り違い、年表整理の不十分など粗雑さ/甘さが目立つが、そのためではないだろうか。
上の記事の中で、成瀬氏が挙げている「江漢の言うことは信用出来ない」実例は、ほら吹きの証拠にはならない。

「チチングから画帖をもらった人が居るという話を聞きつけて欲しくてたまらず、いろいろ交渉した結果、大金を払ってやっと譲り受けた・・・」など長々と書くべきところを省略して「チチングからもらった・・・」と書いただけである。この話の中心は「チチングの所有していた画帖を入手して、勉強した」ということであり、どうやって入手したかの問題ではない。この手の省略は誰でもよくやることであり、私にもいくらでも経験がある。
江漢がこれまで「ほら吹き」とされた本当の理由は、「持論である西洋画論に見合った江漢作品が見当たらなかった」ことにある。江漢の本業である画業での「言行不一致」は許容するわけには行かなかった。
 
考えて見ると、おかしな話である。
もともと「江漢の絵画理論に合った江漢作品が存在しない」ことが「江漢ほら吹き説=江漢の自筆資料は信用出来ない」の始まりである。
今回その理論に見合った作品が発見されたのだから、「江漢はほら吹きではない」ことになり、したがって「自筆資料も尊重しなくてはいけない」ことになったはずなのであるが、自筆資料が切り捨てられたまま放置され、その結果、画帖も認められないという奇妙な悪循環になっている。一旦決めた研究基本方針の先入観から抜けきれないためである。
成瀬氏の研究と大畠の研究との違いは、「江漢第一人者の研究」と、「無名の素人研究者の研究」の違いではない。
江漢の「自筆資料を無視した」研究と、「自筆資料をすべて信用した」研究との違いであり、どちらが正しいかは自明である。
大畠の言っていることはすべて江漢自身の自筆資料にちゃんと書いてあることなのである。
江漢「春波楼筆記」1811  富士山論、風景画論  
○吾国にて奇妙なるは、富士山なり。これは冷際の中、少しく入りて四時、雪,嶺に絶えずして、夏は雪頂きにのみ残りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、まことに奇観とす、・・それ故、予もこの山を模写し、その数多し。蘭法蝋油の具を以て、彩色する故に、彷彿として山の谷々、雪の消え残る処、あるいは雲を吐き、日輪雪を照らし、銀の如く少しく似たり。
吾国画家あり。土佐家、狩野家、近来唐画家(南画)あり。この冨士を写すことを知らず。探幽(狩野探幽)冨士の絵多し、少しも冨士に似ず、ただ筆意勢を以てするのみ。また唐画とて、日本の名山勝景を図すること能わず、名もなき山を描きて山水と称す。・・何という景色、何という名山と云うにもあらず、筆にまかせておもしろき様に、山と水を描き足るものなり。これは夢を描きたると同じことなり。是は見る人も描く人も一向理の分からぬと言う者ならずや。

○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし
富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。
之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて・・写真鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。唐画の如く。無名の山水を写す事なし。
文化十年(1813 )六月十二日 山領主馬あて
一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候(1812京都で描いた多数の富士図)
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

一. この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、
その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
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