江漢五十三次画帖の時代背景                                 論考目次へ
江漢画帖の発見当時、「江漢が東海道五十三次を描くはずがない」という専門家の意見が多かった。

しかし年表にまとめて見ると、江漢が五十三次を描いた1813年は、
 @東海道中膝栗毛の最盛期であること 
 A北斎五十三次がすでに5シリーズ刊行されていること 
 B東海道名所図会など名所図会類が次々に刊行されていること

など東海道の旅の気運が盛り上がっている時期であり、東海道を何度も旅している江漢が五十三次を手がけても不思議はないことが分かる。
別項で示したように、江漢には「日本ではじめての写真鏡取材の活用」というもう一つの動機があった。
 
一方、広重五十三次について、東海道中膝栗毛の人気に便乗/あるいは刺激されたなどと書いた本が多いが、上の年表で見る限り、この説はすこぶる怪しい。

膝栗毛十年以上前に完結しており、ロングセラーとしての人気は続いていたとしても、広重が大々的に東海道五十三次を刊行するほどの動機には成り得ない。(広重は十返舎一九の次の旅シリーズ「金草鞋」の世代である。)

★埋もれていた江漢画帖の発見/入手が、広重東海道五十三次刊行の動機であろう。
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