晩年の江漢(2) −−江漢の娘  江戸版「家政婦は見た」              論考目次へ
●文化12年(1815)3月の江漢書簡「・・・麻布コウガイの辺地に庵を結び、一人の老婆を遣い安居仕候・・・」
  この時期の江漢のエピソードが、当時の隣人の書いた随筆に出てくる。
続日本随筆大成 吉川弘文堂  寝ものがたり 鼠渓    

 〔23〕司馬江漢油絵に名ありと云る絵師、老後わが宿の向の家にかゝり居たり。
折節父の許へ咄しに来り、寒暖計の筋引て給われと頼みし事あり。則引て与へしかば、その礼心にや、画を呉ぬ。表具して掛たりしを幼少の時見たりしが、絹地に墨絵の富士也。江漢が画しなり。

其後江漢、またその絵を他の人に望まれ、召使し姥を以て、先達て進らせし富士の絵、御不用と見へてろくろく礼も申されず、返さるべしと、一ト通り江漢の口上を述、さて跡にて、かの姥気の毒そふに、私には右様の御使には参り難しと申けれども何分聞ず、一旦進上せしものを返せなどと誠にわからぬ老人也とて、散々に誹諺しける。それに構し事もなければ、右の図をとり出し帰シ遺りぬ。

姥持帰り、江漢に渡しければ、江漢何と申されしぞと問。何共申されずと云。江漢気の毒にや思ひけん、紅毛の松明とか云ものを、又姥に持せて、これは表具なされしかわりなりとて遣シけるを、わが父請給わず、持て還るべしと云。かの姥むりに置て帰りぬ。
返して来よと、われらに申付られし故、又持て江漢の許へ行、返しければ、何やら小箪笥の引出しより出し、これはおまへの持遊びに進ると云。われら幼少ながら、取ては悪しかりなんと思ひ、入り侯はずと云て暇乞して帰る跡より、又姥に彼品もたせ遣し、是非受納あれといふ。父なる人、面倒なり貰て置といわれしかば、礼いふて帰しぬ。
江漢、姥の帰り遅しと待かね、どふした取たか取たかと問。姥答へて、礼言て御請被成しと云げれば、夫でよしよし漸く安心したりと云たるよし。
彼品は鉄にて作りし香箱の如き物也。至て麁品(粗品)なれども紅毛細工のよし今に所持。

成瀬27章「最晩年の江漢」に紹介されているが、読み直してみるとなかなか面白いので紹介し解析しておく。
とくに娘夫婦(娘婿)についてはもう少し踏み込んでもいいと思う。太字部分で分かるように、大部分が家政婦を通じての情報を鼠渓が子供の時に耳にしたもので、子供のとき聞いた記憶は案外しっかりしているものである。
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江漢が隣人に「寒暖計の目盛の線引き」を頼み、お礼に富士山の絵を贈った。ところが後になって、家政婦(召仕えし姥)を使いによこし、富士の絵は不要だろうから返してくれと言ってきた。隣人は機嫌を損ね、富士の絵を突っ返し、代わりの品は受け取ろうとしない。家政婦は間に入って困ってしまい、無理矢理に代品を置いていくと、隣人は子供を使って返してくる。江漢は「お前の玩具に」として別な代品を持たせて返そうとするが、子供が「親に叱られるから」と受け取らない。また家政婦に持たせてよこし、隣人がしぶしぶ受け取ったことを確認して、やれやれと安心した。

−−この子供が成人し、思い出話として「俳人鼠渓−寝ものがたり」に記録された。
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「寝ものがたり」から、いろいろなことが分かる。
●「寒暖計の目盛り・・」から見て晩年の江漢は、相変わらず「究理」サイエンス的なことに関心を持っていたらしい。
江漢引退時の1813年書簡「画も天文も究理もおらんだも残らず飽き果て・・」引退したというのは嘘なのである。

●話の出所は、江漢家の家政婦の噂話である。「代品をようやく隣人が受け取ったことを確認し、江漢がやれやれと安心した」という場面の登場人物は、江漢と家政婦の二人だけだから、その話が隣人側に伝わっているのは家政婦がしゃべったものに違いない。

この「寝ものがたり」の刊行は1856年で、江漢死後40年も経っているため信憑性が疑われているが、家政婦の噂話を少年時代の鼠渓が耳にしたことが出所であり、江漢生存当時の情報である。

寝ものがたり 続き
 〔24〕江漢、元は芝新銭坐に住しが、子細ありて女房は離別し、娘一人もてり。
その娘に持参三十両付て、われら男子なき故、老後に引とり呉よと云約束にて、所惣左衛門と云人の許へ縁付し由也。婿惣左衛門、先に没しぬ。その跡へ入夫して、これも惣左衛門と名乗。その男は越後者にて古今の俗人なり。
或時江漢に、惣左衛門はいかにと問ば、右様なる男というは阿蘭陀にもなしと言り。
家政婦としては、年寄りの面倒を見ている以上、まさかの時の連絡先はちゃんと聞いておく必要がある。
「実の娘がいるのに、何故世話にならないのか」は、家政婦としての一番の関心事であったろう。
しかし江漢は娘夫婦の不祥事など家庭事情は話したがらず、とくに娘婿については、死に別れたとか、同名の男と再婚したとか そんな名前の男は世界中どこにもいないとか−−−その都度適当に言葉を濁して答えていたため、家政婦の情報もあやふやで、家政婦が想像で補った部分もあると思う。
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真相は多分、次のようなことであろう。
娘は親の反対を押し切って駆け落ち同然に結婚した。やむを得ず娘夫婦を跡継ぎにしてあったが、娘亭主が江漢の預け金120両を無断で利殖に流用して回収不能になると言う事件を起こし、そのトラブル処理が高じて江漢の失脚につながった。
江漢は多分娘に離婚も勧めたであろうが、応じなかったので、娘に手切れ金として30両を渡して跡継ぎからはずし、(江漢を神の如く尊敬するが、芸術のことは分からず、誠実だけが取り柄の)医者上田主膳夫婦を跡継ぎにした。

娘とは完全に縁を切ったわけではなく、その後も行き来しているようである。
             (1815年江漢書簡  ・・・詫間氏・・・私娘の宅へ参候路に候間・・・私の娘の家へ行く途中ですので)
★30両は一人娘の結婚持参金としては少なすぎる。
  無断流用のペナルティーを差し引いたあとの娘への手切れ金(当座の生活資金)であろう。
隣家とのトラブルについて
一旦贈ったものを「よそへ回すから返せ」というのは、身勝手な話であり、隣人が怒ったのも当然である。当時江漢の評判は地に落ちていたから、「噂通りのとんでもない変人野郎だ」と思われたであろう。


江漢が富士山を一枚描くのは簡単なことであり、他へ回すためなら面倒な手順で返却して貰う必要はない。江漢の真意は「贈ったときに嬉しそうでなかった」ことを気にして代品に替えようとしたのを誤解されたのではないかと思う。

1812年京都で江漢は著名人たちに頼まれて沢山の富士の絵を描き、大変喜ばれた。ところが1813の隠退事件で江漢の評判がガタ落ちし「社会の敵」扱いになった。
1815頃、江漢の絵を貰っても、世間の人はうれしくも何ともない」のではないかということを必要以上に気に病んで、品物を取り代えようとしたのではないだろうか。
実際には、隣人は江漢の絵を表装までして大事にしていたから、江漢の考過ぎであった。
返してきた絵に表装がしてあるのを見て江漢は狼狽し、せめて表装代は返さねばと子供に別な代品を持たせようとする。・・これがこの小事件の真相であろう。

 
江漢の妻子について(江漢自筆資料より) ・・・「寝ものがたり」からの情報とよく符合する。
江漢西遊日記 冒頭に妻子が登場
・・・諸国を巡覧して三年を経ざれば帰るまじと思い立ちしにや、または宿に妻子を置きたる故にや、胸ふさがり気分あしく・・・
江漢後悔記より
妻について

母親が亡くなったあと、家を捨てて諸国を巡覧する人生を目指そうとしたが、親族に勧められて妻帯した・・・妻帯は人生の間違いだった
 −−−離婚については一切書いていない。

娘について
親にとって子供は何時までも子供で可愛いが、子供の方は親をそうは思ってくれない。
子供は小さいときは可愛いいが、少し大きくなると親の言うことを聞かなくなり、勝手なことをする。
今から思えば娘はない方が良かった。(原文参照↓)
●さて亦、子なきものはものの哀れを知らず、我が子を愛するあまりその愛ほかの子にも及べり。この情は書にも文にも述べること能わず。然るに段々と生長して後は、各々己の志しを表し、必、親の志と違い、己の身体、親の体より出でたりということを弁ずるもの少なし、かつまた孝をつとむるもの多からず、親を親とせざるもの多し。親は子を子とし、子を思うの情深し。これ己の体より出たる故なり。今に至りて考うるに、子は無きにしかじ。
江漢晩年の孤独から考えると、血を分けた娘が一人でも居てくれて良かったと思うのが人情のはずである。
「結局、娘がなかった方がよかった」というのは、娘夫婦の行動が江漢の失脚につながったからであろう。
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