江漢と海保青陵                           論考目次へ
●1812年京都在留中、江漢は海保青陵と面談し「青陵先生はおもしろきひとなり・・また蘭説窮理を以って支那の書を訳し、談話おもしろき人にて・・ 」と書き残している。

●1811年京都に行く前年、青陵あての江漢の書簡が残っている。
春中御差出の書状、漸く八月にして相達申し候・・・先づ以て御安全賀奉り候。小人もとの如く罷り在り候。その後は良き処に御引移りなられ候よし、尚々来春には上京仕るべく候。なお火葬論・・・
<私(江漢)はいまこんなことをやっています。>
・・・小子も近年は西洋天経学に甚だ通じ申候て、毎月八日二十日会として講し申し候。(蘭学定期講演会)
京極備前守之世子、また阿倍福山之世子、皆門人にて彼方へ参り候て論談致し候。(大名若様への御進講)
西洋画・・・世俗偽作して利のため売るもの多く候故、毎月画会を催して世人に施すことを致し候。(絵の頒布会)
この書簡には8月27日とあるだけで年が書いてない。中野好夫は、文中の「その後、良きところへ引き越された由」を根拠に、京都で青陵と会った翌年の1813年としており、これを受けて「江漢全集」も1813年?としているが、明らかに間違いである。

1813年8月は、「老衰したので、何もかも止めて隠居し・・・病を得て死んだ」というニセ死亡通知書を出して失踪した月であり、同じ時期に上記のような「大いに張り切って世のため/人のために働いている・・・」という内容の手紙を出すはずがないではないか。
この書簡には「来年は京都に行く」と明記してある。であれば京都に行く前年1811年に決まっている。

中野好夫が1813年説の根拠にした「その後・・・」の解釈
この書簡が青陵の2回目の手紙に対する返事であることを示している。
青陵の住所が1回目の手紙と変わっており「引っ越した」と書いてあったので、それを受けて「その後良い処に引っ越しされたとのこと・・・」と軽く挨拶しただけである。
江漢の手紙には「3月のお手紙が手違いで8月になってようやく手に入った」という見え透いた言い訳が書いてあるところを見ると、最初の3月の手紙に返事を出し忘れていたのかも知れない。
1811年の青陵あて書簡と1813年のニセ死亡通知を比較すると、晩年の江漢の日常が分かり、この時期の江漢人生の急激な変化もよく分かる。

1811年8月(青陵あて書簡)
 @毎月8日、20日に西洋天文学の講演をやってる。
 A大名の若様に御進講をしている。
 B毎月頒布会を開いて真の西洋画を世人に施している。

1812年 吉野桜見物のあと、半年以上京都滞在 暮れに江戸に戻る

1813年6月(江馬春齢あて書簡)
 ●画も天文も究理も細工もおらんだも、残らず飽き果て・・・養子に家督を譲り、・・・世外の人となり (隠退)

1813年8月(ニセ死亡通知) ・・・「死亡」はウソだが、それ以外はすべて本当である。
 江漢先生老衰して(江漢は老衰したので)
  @画を求むる者ありといえども描かず(頒布会を止め)
  A諸侯召せども往かず(大名から声が掛かっても行かず)
  B蘭学/天文/奇器を巧むことも倦み(蘭学天文・・にも飽き果て)
  C老荘の如きを楽しみ(隠居生活に入り)
  D円覚寺誠拙禅師の弟子となり(仏門に入り)・・・etcをしていたが・・・病いて死にけり
 
海保青陵先生の著作を読む。  日本の名著50 中央公論社
 江漢が「・・・談話おもしろき人なり・・・」と言っている青陵先生の著作を読んでみた。実に面白かった。
 「日本の名著50」シリーズの中で内容的には一番面白いのでないだろうか。

青陵らの学問は、「実学」と呼ばれ 江戸時代と明治時代の橋渡しとされる。 
卑近な実例やたとえ話

★古道具屋で茶用の柄杓を売っていた。千利休作が20両、江戸時代の新作が100両。
    千利休の真作であっても出来が悪く使いにくいものは安い。
       →→孔子孟子の言であってもそれだけで尊いということではない。
★「猫を徹底的にしつけて、魚が置いてあっても取らないようにする」のは大変。
    「猫に取られないように、魚をケースに入れる」のが正しい。
★昔からの伝統的な製法を続けている酒屋の売れ行きが低下。
   トウジ(発酵の技術者)を入れ替え,酒の味を当世風に変えることで苦境を乗り切る。
                         ・・伝統にとらわれず、時代に合わせることの重要性
★子供がお灸を嫌がるからといって、お灸を止めるのは本当の「慈」ではない。
   長い目で見て子供のためにならない。
★「3分の1見切り」
  全部に勝とうと思うな。2:1に持ち込むことを心がけよ
    1/3は、ほっておいても勝てる。故に ほっておく。
    1/3は、いくら頑張っても勝てない。故に ほっておく。
    1/3は、努力次第、知恵を出せば勝ちに持ち込める。 この1/3に全力投球する。
★智、仁、礼、徳、慈、孝、忠 は、絶対的なものではなく、物事をうまく進めるための道具に過ぎない。
    うまく使い分けよ。
★自分の情で他人を推し量るな。他人の立場/感情で考えよ
当時の藩は、それぞれ一つの会社経営と同じで、赤字に苦しんでいた。
青陵先生は、各藩の経営について有益な話をして歩く経営コンサルタントで生計を立てていたらしい。
とくに面白かったのは、戦後に全国の会社で流行った「提案報償制度」を、江戸時代に先取りしてコンサルティングしていることである。
他の国を旅していて、例えば灌漑の方法に上手い工夫がしてあるのを見たら、自分の藩でも使えるのではないかと提案する。藩ではそれを検討し表彰して褒美を出す。
●まづ公に表彰することが大事で、「あの程度の提案で褒美がもらえるなら俺でも出来る」という ほかの人への呼び水になり、次々にもっと良い提案が出てくる。

●以前からの「目安箱」には、内部告発(密告)という暗いイメージがあるので、提案制度と目安箱制度は明確に区別することが大切。・・・・

細かい配慮を含め、現在の提案報償制度と較べても、ほとんど完璧な内容である。
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