仙女考−−仙女と仙女香                                   論考目次へ
 
江漢時代に仙女香はなかったという誤った情報(アリバイ)が美術界にあり、江漢図は「広重の仙女香広告をうっかりミスでコピーした」粗雑なニセモノであるとされて、発見初期の鑑定を誤らせた。

情報の誤りについては「関」で詳しく説明した。仙女香は江漢の生前に、役者仙女の人気と連動して売り上げを大きく伸ばした女性用化粧品であることは「歌舞伎人名事典」「浮世絵事典」などの基本資料からも確実であり、仙女香が江漢と同時代の化粧品であることは明白である。したがって仙女香は江漢画帖の真贋議論の材料にはならない。
    真贋の議論としては、上記だけで十分である。
以下の議論は江漢図の真贋とは直接には無関係であるが、歌舞伎や化粧品の歴史の修正として記録しておく。
  江漢図に仙女香の広告が描かれた事情の手がかりにはなるかも知れない。
江漢図「関」の仙女香広告  
江漢が「仙女香」の広告札を描いたのは何故
だろうか。次の二つのケースが考えられる。

(1)江漢が、どこかの本陣で実際に仙女香の広告を目撃した。

男ばかりの世界である本陣に女性用化粧品の広告があることに疑問を持ったが、その理由を聞いて納得した。
大名行列に付いてきた武士が、田舎に帰るときの奥様への土産に江戸名物の「仙女香」をどうぞという広告であろう。更に穿って考えれば、江戸でお土産を買い損なった武士のために、本陣の帳場で「仙女香」を委託販売していたというケースも考えられる。日航機の中で口紅や香水を機内販売するのと同じ発想である。白粉程度の化粧品なら引き出しに入れておける程度の商品なので、旅籠の帳場でも簡単に扱えるだろう。

(2)江漢人生のどこかで仙女/仙女香に関与した思い出がある。
江漢画帖には、他にも江漢人生の思い出や思い入れを描き込んだフィクションがいくつかある。
         (日本橋のインドネシア人、南蛮襟の武士。大津の牛飼い少年・・・)

「若き日の江漢が仙女香あるいは仙女の売り出しに一役買った」という仮説について説明する。
関連年表(下図)を参照      赤字・・・大畠の推定 (年表の欠落?)
1)仙女(役者)あるいは仙女香(化粧品)は、「仙女−女仙人−−永遠の若さ」のイメージで命名されたものだが、もう一つ、当時の江戸評判娘の第1号「笠森お仙」のイメージが隠されている。

2)笠森お仙の売り出しには春信の錦絵が大きく貢献している。若き日の江漢は、春信の浮世絵を代筆(春信の急死後、出版元の頼みで一時春信名で偽作)した時期がある。

3)日本の美術232「江漢と田善」細野正信著に掲載された江漢(春重名)の浮世絵に「人の落ちて名高きかな」という句が入っている。
洗濯する女性の白い足に惑わされて落ちた久米仙人は名高いが、女の方は別に名高くはない。
この句は絵の内容とも関係がなく、単に「仙−女」を読み込んだだけの句と思われる。
仙女(または仙女香)の売り出し−−宣伝用の引き札ではないだろうか。

 
仙人の落ちて名高き女かな 春重(若き日の江漢)
◆初代江戸評判娘「笠森お仙」は1770に引退するが、初代評判娘「お仙」の評判はその後も長く続いた。春信の急死(1770)で困った版元の依頼で、若い江漢が一時期「春信」名で代筆するが、誰も気が付かなかったという。
江漢はその後「春重」を名乗って女性浮世絵を描き続ける。(江漢は浮世絵師時代のことは、あまり自慢にならないと考えていたらしく、自分からはほとんど語っていない。)

◆大阪の市山富三郎は、2代目菊之丞に招かれて、1772年江戸へ出て瀬川富三郎を名乗るが、1年後、2代目菊之丞の急死(1773)で瀬川菊之丞と俳名「路考」を継ぐ。

◆二代目/三代目とも「菊之丞」よりも「路考」として有名だった。
二人の「路考」を区別するために、世人は「王子路考」「仙女路考」と呼び分けたといわれる。
しかしこの話にはおかしなところがある。「仙女」は何時/どこから入って来たのであろう。公認された年表では、この時期(1773頃)「仙女」の名は、まだどこにも出てこないのである。

富三郎は、1772年に江戸へ出てきたとき、当時人気絶頂だった笠森お仙にちなんで「仙女」の俳名を1年間だけ使ったものではないかと思われる。この時期は、江漢が「春重」を名乗り始めた時期/すなわち上記の「仙人の落ちて名高き女かな」の絵が描かれた時期と一致する。

◆30年後の1801、三代目菊之丞は、芸名菊之丞を返上し、芸名「路考」俳名「仙女」に改名、さらに1803芸名を瀬川仙女とする。このころ人気絶頂で、仙女香もそれに連動して売り上げを大きく伸ばした。
  「菊之丞」の名前は代々の菊之丞本人から敬遠されている。縁起が悪いとか早死にするとかのジンクスがあったのではないか。

役者の人気と化粧品売り上げが連動したことは確かだが、本には「改名記念の発売」「人気に便乗」「タイアップ」「単なる連動」の諸説が書いてあり、本当のことは誰にも分からないらしい。
  歌舞伎人名事典:連動説。 浮世絵事典:改名記念発売説
ただし、役者仙女との「タイアップ」や「改名記念」を裏付ける資料は何も残っていない。

仙女香が発売されたときの広告(引き札)が現存しており、発売の理由やいきさつが書いてある。(下欄)
      (残念ながら年月日が書いてないため発売年特定の資料にはならない。)
この引き札には仙女香と役者仙女との関係は一言も書いてないことからも、タイアップ説は根拠のない勇み足と思われる。
(江戸東京博物館のパンフレットには「仙女香の発売=1803」とあるが、ある研究会で、館長を通じて確認したところ、「改名記念説」を単純に信じたための(パンフレット作成下請け会社の)勇み足という返事だった。)
   仙女香が発売されたときの広告・・・役者仙女との関連は何も書いてない
御かほの妙薬おしろい美艶仙女香
  
 此御くすりは享保十一年二十一番の船主伊字九といへる  (亨保11年=1726
 清朝人長崎偶居の時丸山中の近江屋の遊女菊野
 □受たる顔の薬の奇方なり伝ていふ清朝にて
 宮中の婦人常に此薬を用て粧をかざるとぞ
 右の伝方故あつて予が家に伝えたるを此度世に弘るもの也
 今世上に顔のくすりと称するものあまたありて色はいづれも初霜
 のおきまどはせる菊なれども家方の妙薬は別種の奇副なれば
 世上の顔のくすりと一列に下看給ふ事なかれ
●以上から、大阪から江戸にスカウトされた瀬川富三郎(のちの三代目瀬川菊之丞)の売り出しに若き日の江漢が一役買った−「仙女」宣伝用の引き札を描いたのではないかと思っている。
細野氏によると、この図は春重名の女性浮世絵としては、もっとも初期のものらしいので、江漢の画家としてのデビュー作(春信名の代作を除く)かも知れないのである。
以上
@ 「仙女」は「女仙人=永遠の若さ」のほかに、江戸評判娘「笠森お仙」のイメージを含んでいる。
A 三代目菊之丞の瀬川富三郎時代の俳名が「仙女」である。これまでの年表に脱落しているらしい。
B 江漢の浮世絵「仙人の落ちて名高き女かな」は、仙女の宣伝用に作られたもの

というのが大胆な大畠の仮説であったが,意外にも川柳でその一部が証明された。
陶智子氏の「江戸美人の化粧術」
仙女路孝を詠んだ川柳が紹介されている。
    橘中から女の仙人が出る。(柳多留二十九) 寛政末 1800頃 
橘中とは家紋「橘」から市村座のこと。
橘の実の中で二人の仙人が碁を打っていたという中国の伝説をもじって、橘(市村座)から女仙人(仙女)が出たという川柳である。

実はこの句には元歌があり、それより以前の次の句をパクったものである。
   ★橘中よりゼンケンたる仙女出る(貌姑柳)天明5 1785年 

室山源三郎「江戸川柳の謎解き」教養文庫(社会思想社1994)に三代目路孝を詠んだ句として掲載
「貌姑柳」の年代については、日本古典文学大系57(岩波)「川柳狂歌集」の解説より
  貌姑柳(ハコヤナギ)・・・初代川柳の句集−−天明5年序。麹町梅連の月次例会句集−−


年表に仙女が出てくる1801年よりも20年も前の川柳である。三代目菊之丞は最初から仙女と呼ばれていたことが
この川柳で完全に証明されている。

ゼンケン・・嬋娟 あでやか

●江漢西遊日記のエピソード
江漢西遊日記には、旅先の長崎芸者との世間話として
「わたくしは江戸の路孝と申す役者(三代目路孝)に良く似たと申すこと、実なりや」と問ふ。・・良く見ればなる程良く似て居たり・・」が記録されている。

「若いとき三代目路孝の売り出しに一役買ったことがある」という旅先での江漢の自慢話から、この話題になったのではないだろうか。

旅先の芸者とのたわいない世間話など普通は記憶や記録に残るものではない。江漢が晩年に清書/整理した西遊日記にこのエピソードが書き残され、江漢五十三次画帖「関」本陣図に「仙女」の広告板が描き込まれたのは、江漢に「仙女」への何らかの思い入れ/思い出があったに違いないと思っている。

inserted by FC2 system