お馬行列(2)                                 論考目次へ
広重のお馬行列参加説をみんながまだ信じていた頃から、「それにしては現地を見て描いた写生図が少なすぎる」という疑問が出されており、それに対して、「広重は、団体行動だったので立ち止まってスケッチする暇がなく、現地の風物を目に焼き付けるに止め、江戸に戻ってから五十三次を作成した」というもっともらしい言い訳が用意されていた。
しかしこの言い訳は、少なくとも京都には適用できない。
お馬行列は7月7〜9日に江戸を発ち、15日後の23〜24日頃京都に到着する。大井川の川止めがあっても8月1日の八朔行事には充分間に合うような日程である。広重は京都では約1週間現地取材の時間がゆっくり取れたはずである。
広重ほどの画家がはじめて京都へ旅して、この間、何も京都見物せずに宿で昼寝をして過ごしたとは考えられない。
(お馬行列一行の宿舎は、中島町で、三条大橋から数百メートルの場所であった。)
ところが(各論でも詳しく述べたように)広重「京都」には、現地取材の形跡が一切見られない
@石橋を誤って木橋に描いた橋桁問題は有名。それ以外にも・・・
A背景の険しい山には現地には存在せず、伊勢参宮名所図会などから強引に合成したもの。
B橋の上の人物(とくに京都らしい珍しい人物「日傘を差した武士」)は伊勢参宮名所図会からの転用である。
広重は京都には行って居ないことは、これだけでも最初から分かったはずである。
 
日傘をさした武士(左:広重図 右:伊勢参宮名所図会)
 
広重がお馬行列に参加していないことを示す事例は、今となっては他にもいくらでも指摘できる。
由井: 
お馬行列は、江戸から馬を運ぶだけの気楽な旅であり、馬を無事に届ける目的だけに集中すればよい。
由井のサッタ峠には上中下3つの道がある。(下右図) 広重「由井」は中道からの風景。
中道は足元が急峻な斜面になっており、馬が暴走でもして滑落すれば間違いなく馬を失うことになる危険な道である。
(お馬行列の責任者の切腹は免れないであろう。)
危険を避けるために作られた新道が上道で、お馬行列一行は間違いなく、安全な上道を通過したはず。
広重は絵を描くために一行から離れて一人中道を通ったことになるが、危険な中道を通らなくても絵になるような勝景の場所は見つかるのである。(例えば下左図 「サッタ道随一 風光明媚 眺望絶景」 と書かれた場所)
 
箱根: 
箱根の写生場所は、関所のすぐ手前(江戸側)を、東海道から離れて30m程登った塔ヶ島の頂上。絵を描くためにお馬行列一行を待たせるわけにはいかないから、広重は絵を描いた後、一人で関所を通過することになる。
お馬行列は幕府公用の旅なので、関所はほとんどフリーパス(参考:太田南畝「改元紀行」)。しかし一人残った広重はどうやって関所を通るのであろう。
広重は生まれて始めての東海道旅で、関所を通るのも始めて。そんな広重が、一行から離れて後から一人で関所を通るなどの冒険をするはずがない。芦ノ湖と富士山を描きたいだけなら、関所を通った後、いくらでも写生場所は見つかる。

箱根関所と塔ヶ島の位置関係 東海道分間延絵図(元禄版)
江漢の旅は逆に京都から江戸に向かっており、箱根関所を無事に通り抜けた後に、この絵を描いたことになる。
江戸時代の塔ヶ島は箱根関所の一部(勅使の接待所)だったから、江漢は関所の許可を得て登ったはずである。関所の役人相手にそんな行動が取れる人物は江漢くらいしか居ないのである。
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