4−2 鎌倉古道                                        目次へ    
本来は、鎌倉時代の鎌倉道(いざ鎌倉の道)。−−右図
保土ヶ谷を通るのは、「下の道」である。

鎌倉幕府が滅びたあとも、東海道のような公道が制定されなかったため、「鎌倉道」が公道の代わりに主街道として使われた。
鎌倉古道の定義=「東海道が出来る以前の鎌倉道」

すなわち、鎌倉時代よりも新しいかも知れない道も鎌倉道研究に含めている。
区別が付きにくいためである。
江戸時代の資料(武蔵国風土記稿など)の扱いも同じ。
下の道(品川〜三ツ沢) 下の道(石名坂〜北鎌倉)

品川から海岸を通り、大森駅の手前から内陸に入る。
池上本門寺付近を通り、矢口の渡または丸子の渡しで多摩川を越え、日吉(駒林)を通過。東横線に沿って片倉/神大寺から三ツ沢に出る。
保土ヶ谷を通る鎌倉古道
鎌倉古道(鎌倉下の道)が保土ヶ谷を通っているのは、地元としてお国自慢してもよいはずだが、東海道人気に押され、あまり研究もされず、話題にもならないのは残念である。

鎌倉古道の研究は(保土ヶ谷研究とは別に)進んでおり、全般のコースもほとんど確定している。

保土ヶ谷地区について、@三ツ沢付近まで来ていること A古町通りが鎌倉道であること B石名坂が鎌倉道であること
はほぼ間違いないが、三ツ沢〜石名坂の間がどうつながるのか確定されていない。
●現在の地図で考えれば、鎌倉古道=古町通り経由(左図)が当然と思われ、ほとんどの鎌倉道の研究本にもそう書かれているが、次のような問題が残っている。

(1)古町橋−古町通りルートは、今井川沿いである。
古道の常識
(下記)によれば、鎌倉時代の古道は川沿いではないはず。
  鎌倉時代の本当の鎌倉道は、別なところを通っていた?
                             →
(4−4
(2)このルートでは、鎌倉道は保土ヶ谷宿(元町付近)は通らないことになり、保土ヶ谷宿の起源が何も説明できない。
古道の常識
●古い時代(鎌倉時代)の道は、山の上を通っている。川があれば急坂を下って、直角に川を横切り、すぐまた山に登る。
●新しい時代(江戸時代の直前)の道は、麓に下り、川沿いや海岸沿いの道が多い。 上の原則で比較的古い道か新しい道かを判断できる。
この鎌倉道は、鎌倉時代の鎌倉道ではなく、戦国後期に開かれた後期鎌倉道である。    次ページ(4−4)につづく
   
   
4−3 鎌倉古道と旧々東海道の関係(上図)
旧々東海道のルートは、それまでの道をつなぎ合わせたもので、保土ヶ谷付近では鎌倉古道の一部(古町通り付近がそのまま利用されている。
旧々東海道は、以前からの道をそのままつなぎ合わせただけだが、「山鼻を少し削って、直線道に直す」程度の簡単な工事は行われたらしく、帷子町郵便局裏の人口崖(現在駐車場裏)は旧々東海道の工事跡と思われる。
   ★「ごえんば横町」=郵便局のある高札場横町
武蔵国風土記稿の「古町街道」記事
「昔は海道の往来今のところよりは西北の方にありしという。然るに慶安元年その道をかえられてより今の如くなりたり。
旧き趾つたえて今に残れり。
」(大畠の意訳: 旧々東海道時代の跡と言い伝えられる工事趾が今でも残っている。)

江戸名所図会:「古町街道」
芝生の追分より下帷子の右の裏通りを,程ヶ谷の元町に出る通路にして、行程十八町ばかりなり。すなわち古の街道なり。
万治二年(1659)(あるいは慶長あるいは慶安とも言う。)今の如く通路を改められしより、裏通りを古町街道と称し、今の駅舎を新町とは名付けしなり。
鎌倉道のルートを探る資料  
鎌倉下の道

鎌倉道のルートを直接示す資料は少ない。
准后道興の旅日記の地名は重要な手がかり。

駒林:日吉付近に現存する地名
帷子:当時の「帷子」の範囲が広すぎるため、
    帷子川をどこで越えたか分からない。
岩井原:岩間原(清水ヶ丘)
餅井坂:港南区最戸に現存
  大正時代にこの地名が発見されて、学説が一変した。

すり鉢坂:諸説あり
離れ山:大船付近に現存する地名

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太田道潅「平安紀行」は偽書とされている。
「日盛りは片肌脱ぎて旅人の汗水となる帷子の里」
以下の項目は、まだ定説にはなっていない「大畠説」である。→→これまで謎だった保土ヶ谷宿の起源が説明できる。
詳細はCD版またインターネットの「保土ヶ谷宿の成立と保土ヶ谷付近のの交通路の変遷」を参照のこと。
4−4 鎌倉時代の鎌倉道(前期鎌倉道)

古町街道は、川沿い(今井川)の道で、古い時代(鎌倉時代)の古道ではない。鎌倉時代の古町橋付近は低湿帯で、通行不可能だった。
当時の交通路は左図のように和田橋で帷子を越え、「桜ケ丘経由石名坂」の道と、「保土ヶ谷宿−境木越え」の道に分かれたものと推定する。
戦国時代になって海面が下がり、帷子川下流が通行できるようになったため、古町通りルートが開けた。

これまで、古街道(鎌倉道/旧々東海道・・)が桜ケ丘を通っていたという説はいろいろあったが、いずれも東→西の進路であった。上図の説は逆に西→東の進路であり、これまでとまったく違う説であることに注意。

仏向町の田辺政義氏が以前からこれと同じ説を主張していた。理由として
★保土ヶ谷公園野球場付近に塚が並んでいた。(十三塚か?)
★花見台県営住宅の工事現場で、砂利を敷き詰めた簡易舗装が発見された。
4−5 境木越えの道 (保土ヶ谷宿の起源
東海道が出来たときに、強制的に人を集めて保土ヶ谷宿を作ったように書かれた本もあるが、無理な話である。
東海道以前から交通の要地として栄えていた保土ヶ谷宿場をそのまま利用して東海道の宿場としたのである。
武蔵国風土記稿  保土ヶ谷宿を通る古街道(元町付近−境木越え)について次の記事がある。鎌倉道や古町街道とは別な道である。(太田道潅の記事に続いて) 
この頃の(道潅時代の)街道は今の道より乾(いぬい=西北)の方にありて、その道の次第は相州境(境木)より今の如く
来たり、元町のうち
東に行くところを行かずして、田間を越え、良(うしとら=東北)のあたり片倉村の方へ入りしなり。


東北の方向に片倉を目指すルートは上図と一致する。明治13年地形図の片倉村も参照。
東海道が出来る(1601)以前から、境木越えの道があり、坂の下に保土ヶ谷宿が発展していたことは確かである。
 ★徳川家康が入国した翌年の天正19年(1591)に戸塚付近で大きな道路工事が行われた記録がある。
 ★武田信玄乱入(1569)のとき、蒔田の吉良勢が石名坂に鉄砲隊を並べて待ち構えていたが、石名坂には来ず
   境木越えの道を取った。
 ★上記の武蔵国風土記稿の記事「太田道潅時代(1486頃)の街道のルート・・・」
権太坂が通じたのは、東海道が出来てから60年も後のことである。万治3年(1660)
「権太坂がないと境木越えの道は通れない」という議論が見られる(戸塚郷土史など)が誤りであり、境木中学からまっすぐ北に下れば、ちょうど「法泉下」に出られる。
  ★権太坂が出来る以前のの保土ヶ谷宿は現在の元町付近ではなく、今井寄りの「法泉下」であった。
    慶長14年の検地帳地名を参照。

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