3.追分からの枝道                         目次へ
松原商店街のはずれは「追分」と呼ばれた。次の二図には、「東海道と何道との追分け」か書いてない。

金川砂子「追分」

東海道分間絵図「追分」(元禄3)
普通は「八王子道追分」と呼ばれるが、「大山道追分」とも呼ばれたらしい。※広重東海道風景図会など
新板 東海道分間絵図(右下図)では、「相州道追分」と呼び、「相州道とは八王子道/大山道/厚木道などの総称」としている。

●市沢経由の八王子道は遠回りのように見えるが、帷子川
がカーブしているため実際の距離はほとんど変わらない。

新板 東海道分間絵図(宝永2)
元禄の東海道分間絵図を小型にし、説明を付け加えたもの

新板 東海道分間絵図
八王子道 :帷子川北岸(16号線)

相州道は、和田橋で八王子道と分かれて帷子川を渡り、
  大山道/二俣川方面に分かれる。
●さらに二俣川で、八王子道と厚木道に分かれる。

八王子に行く道は、帷子川沿いだけでなく、和田で川を渡り、市沢三反田を経由して鶴ヶ峰に出る山越えルートがあった。

大山道については、次ページに詳述  →大山道
広重東海道風景図会 ・・(神奈川)台の西に仙元の人穴見ゆ。大山道の追分も西の方にあり。

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武蔵国風土記稿の相州道記事はこれだけである。
和田村:南方に相州道あり。仏向村より入り帷子町に通ぜり。この道村内を通ずること四百間余
すなわち和田橋で帷子川を渡る部分だけが相州道として記載されている。
  坂本村/仏向村/市沢村では、帷子川南岸の道を「八王子道」と呼んでいた。
  和田村では二つの八王子道をが通過するために、「八王子道」「相州道」と呼び分けて区別していた。
桜ケ丘の相州道について 
「桜ケ丘の尾根道」は、市沢町で「追分から来た相州道」と合流する。桜ケ丘の道も地元では「相州道」と呼ばれていたことが、武蔵国風土記稿に明記されている。  注意:江戸時代の神戸/星川/仏向の位置/範囲に注意して読むこと
武蔵国風土記稿 桜ケ丘の相州道
下星川村記事:村の (ひつじさる=南西)の方、仏向及び神戸町の境「下星川と仏向との境」および「下星川と神戸との境」という意味)に一条の往還あり、相州へ行く間道なれば土人
相州道と呼ぶ。道幅は二間余なり
仏向村記事:村に海道二条あり。其一は・・・八王子往還と称す。一は相州往還と呼ぶ。南の方下星川より入て十丁ばかりにして都筑郡今井村に入る、道の幅一間余なり。
武蔵国風土記稿の中で、前記の下星川の相州道の文章は少々異例である。

「相州へ行く間道なれば〜相州道と呼ぶ。」
「相州へ行く道だから相州道」というのはあまりにも当たり前すぎる。
いちいち「鎌倉へ行く道なれば鎌倉道という」「八王子へ行く道なれば八王子道という」としたのでは全体の文章が冗漫になって収拾がつかない。
○「土人相州道と呼ぶ。」
地名というのは、土地の人がそう呼ぶからそういう地名なのであり、「徳川家康が命名した・・・」などの地名がそうざらにあるわけではない。
いちいち「土人〜と呼ぶ」と記載していたのでは風土記稿は「土人」だらけになってしまう。
(推定)武蔵風土記稿の筆者は事前に関連資料を調査し、前記の「新板東海道分間絵図」のような街道図も調べて、「追分で東海道から分かれる相州道」の概念を持っていた。
調査を進める中で、自分の概念とは違う別な桜ケ丘の「相州道」の話が出てきたため一瞬抵抗を感じたが、話を聞いてみると市沢村で相州道につながる間道ということなので「相州道につながる枝道なら相州道と呼んでもいいのかな」と納得した。
その心理の動きが上のような文章になって残ったのであろう。

 

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