浮世絵で見る保土ヶ谷宿   保土ヶ谷区生涯学習 保土ヶ谷歴史探訪 第6回講座                  2
基礎知識  保永堂版 広重東海道五十三次         目次へ
●もっとも有名な広重の東海道五十三次シリーズ (1833刊行)
●広重の最初の東海道五十三次で、「広重の出世作」である。この一作で広重は一挙に大先生になる。
他のシリーズと区別するために、版元の名前を採って「保永堂版 広重東海道五十三次」と呼ぶ。
これからの話に、何度も出てくるので、保永堂版の名前を覚えておいて欲しい。

広重は生涯、いくつもの東海道五十三次を描いているが、最初の五十三次がもっとも出来がよく人気があり、空前のベストセラーになり、世界的な名作となったのは何故か。広重の謎の一つである。
保永堂版以後の五十三次
「保永堂版広重東海道五十三次」が好評だったため、その後も「五十三次」を描いて欲しいという話が次々に舞い込み、広重は生涯に15シリーズもの東海道を描いた。

うち主なものが7−8種類。
区別するために後の世の研究者がそれぞれにニックネームを付けている。
 行書東海道
 隷書東海道
 狂歌入り東海道
 人物東海道など

図書館などで、保永堂版以外の広重東海道五十三次を見るのは意外に難しいが、「高橋コレクション」(右図)が手軽である。
広重五十三次の保土ヶ谷 (保永堂版以外)の例を示す
帷子橋 境木茶屋     境木茶屋
北斎の五十三次 (広重以前の東海道五十三次)
保永堂以前の五十三次

広重以前に、北斎の五十三次シリーズが、なんと8シリーズも出ている。
北斎は広重より三十才年上の大先輩だが、九十才以上まで長生きをしており、広重風景画のライバルでもある。

北斎五十三次と同じ時期に、十返舎一九の東海道中膝栗毛が19年間にわたって刊行されている。
年表を見ると、北斎の五十三次は東海道中膝栗毛の人気に便乗した出版と思われる。

広重五十三次についても「膝栗毛に便乗」したかのような解説がされることがあるが、時間的に離れており、「便乗」説は無理であろう。
●名所図会
さらに、浮世絵ではないが、東海道名所図会、伊勢参宮名所図会などのガイドブックがある。

これらが広重東海道五十三次の元絵にされていることが少しづつ分かってきている。

★最初の発見は昭和35年(1960)近藤市太郎氏。最近の発見は平成16年(2004)鈴木重三氏で、その間40年かかっている。
本気で探せば2−3日で見つかるはずの内容である。
北斎五十三次の「保土ヶ谷」を紹介する。
1825頃 1805頃
1833頃
うち右の二枚はまったく同じ場所(境木)を描いたものだが、制作年が30年近く離れている。。
初期(1805)の作品はいかにも下手で、北斎ほどの名手でも最初から上手だったのではなく、30年の間に徐々に腕を上げたことがよく分かる。

●この北斎を見るにつけても、広重では「最初の五十三次が最高傑作」というのは不思議であり、広重の謎の一つである。
●北斎から数えると、広重東海道五十三次は九番目である。

保永堂が、何故「九番煎じ」の東海道五十三次ものを企画し、それも大判の55枚揃いという大プロジェクトにしたのか。
「乾坤一擲」とも言える大プロジェクトにそれほど有名でなかった若手の広重を起用したのか−−−なども大きな謎である。
●九番煎じの広重東海道五十三次が大当たりしたことについて「北斎と広重の違い」を論じる研究は多い。

(1)北斎五十三次の例を示す。北斎五十三次は人物が主体で風景はあまり描いていない。
2)一方、広重五十三次風景が中心である。

広重東海道五十三次のセット袋に「真景/東海道五十三駅続絵」とある。(→右図)
広重五十三次は「真景−実際の風景を写生」を売り物にしている。

広重グループは、この「真景」にこだわってなっており、広重も版元(保永堂)も「実際の風景と違う」と言われることを極端に警戒している。
各論で見るように、広重の謎のいくつかはこの「真景へのこだわり」で説明がつく(後述)。
北斎五十三次:参考図書   (1)「北斎美術館」全5冊のうち「2 風景」集英社   (2)吉田漱「東海道五拾三次」集英社
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