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朝日新聞記事
  「広重、東海道五十三次を旅せず」

         2004/1/23夕刊トップ記事

見出しの「他の絵と人物酷似」とは、一九の「道中ゆきかい振り」のことで、すでに説明してきた。

見出しの「石の橋脚を木製に」について説明する。
京都の三条大橋は、豊臣秀吉の造った日本最初の石橋として有名だが、広重はそれを木製の橋として描いており、「広重が京都には行っていない何よりの証拠である」とされる。


現在の橋は昭和30年代に作られたコンクリート製だが、当時の姿を再現するように努力しており、広重時代の姿もこれに近かったと思われる。
橋桁だけでなく、橋の上の人物、背景の山の姿からも、広重が現地取材した形跡がまったく見られない。(大畠)
広重は少なくとも京都には行っていない。

「広重の橋桁ミス」の発見は2年前ではなく、昭和40年頃?。
その結果、見出しの「広重,東海道を旅せず」説が浮上し、いまや専門家の間では常識になっている。
      (一般向けにはほとんど公表されておらず、知る人は少ない。)

「広重のお馬行列」説を信じる研究者は一人もいないと思うが、代わりの説がまだないために、積極的にそれを述べる人もいない。五十三次本や広重展のカタログなどにいまだに「お馬行列」説をそのまま書いてあるのは白々しいとしか言いようがない。
これまで定説とされた「お馬行列」図 広重五十三次「藤川」
広重はこの行列に特別参加して京都まで旅したとされていた。
この新聞記事は、この日岩波書店から刊行された「保永堂版広重東海道五十三次」(鈴木重三ほか)の紹介記事である。
 この本(\22,000)は横浜中央図書館/神奈川県立図書館で閲覧可能。
 最新の広重研究本で、異摺りや異版をよく集めてある。一九の「道中ゆきかい振り」も収載。
広重はどこまで旅したのか
以上のように広重は京都には行っていないことは確かである。では「どこまで旅したのか?」が現在の研究の最大の関心事である。

★先に答えを言っておくと大畠説は「平塚/大磯まで旅した。小田原には行っていない」である。
 「平塚大磯往復」なら3泊4日程度の旅だが、これまでの定説「京都往復」なら45−50日の旅になる。
以下、保永堂版五十三次の神奈川県分を一つづつ説明する。
これまで述べてきた広重の謎−とくに「
広重はどこまで旅したのか」を頭に置いて聞いて欲しい。
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