浮世絵で見る保土ヶ谷宿   保土ヶ谷区生涯学習 保土ヶ谷歴史探訪 第6回講座    第3部−各論1
第3部 保永堂版 広重東海道五十三次各論  保土ヶ宿とその周辺について      目次へ
保土ヶ谷
二つの項目について取り上げる。
(1)帷子橋(帷子川の川筋が変わったため現存せず。跡地に帷子橋公園)
図の丸い山が現地にないことは地元の人間がよく知っている。
この山は、東海道名所図会「浅間神社」(洪福寺〜横浜駅西口間の「浅間下」バス停)からのコピーである。
保永堂版には東海道名所図会からのコピーが含まれていることは昭和35年以来の常識である(後述)が、浅間神社について指摘されたことはなく、約10年前に大畠が発見した。
浅間下と帷子橋は2kmも離れたまったく別な場所である。

「広重は保土ヶ谷にさえ来ていないのか?」という疑いが生じると思うが、実は保土ヶ谷には来ている。
その根拠は次の「二八そば」である。
(2)広重図の帷子橋を渡ったすぐ左側に「二八」の看板が描かれている。

これまでは広重は実際に東海道を旅し、そのスケッチや見聞をもとに東海道五十三次を作成したと信じられていたので、「広重図に描いてあるのが何よりの証拠」で十分だったが、「広重、東海道五十三次を旅せず?」の時代になった今、この論法は通用しない。別な根拠の裏付けが必要になる。

江戸名所図会(たまたま保永堂と同じ1833の刊行)は、たっぷり時間をかけて取材した信用のおける資料である。
この図の「帷子橋」は、保永堂版とは向きが逆で、奥が江戸方向。
橋を渡ったすぐ左側に「二八」の看板が見える。

まったく独立に作られた二つの資料の同じ場所に「二八」の看板があることから、このそば屋はこの場所に実在し、広重は実際にそれを目撃して描き込んだものと推定される。

そば屋自体は大して重要ではないが、「広重が確かに保土ヶ谷を歩いた」証拠という意味で重要。

江戸名所図会(部分)
蛇足: 「二八そば」について、「16文」説と「そば粉8:小麦粉2」説があるが、「16文」説が正しい。
江戸時代を通じて、物価上昇にもかかわらず、16文が保持されたが、慶応年間になってついに20→24文に値上げ。「二八」の看板を下ろした。
慶応年間に書かれた「守貞漫稿」(近世風俗志1)(岩波文庫)にいきさつが明記してある。

 

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神奈川  景勝「袖ヶ浦」に浮かぶ小舟の列。 ある曲線上に並んでおり、釣り船ではない。
東海道五十三次の刊行−−1833
岡野新田干拓工事着工−−1833    広重は、この工事を目撃していないだろうか。
横浜駅周辺地図
  ミドリ部分が岡野新田
      (岡野公園、岡野中学、岡野交差点、岡野橋・・)

  赤線が東海道 (台町からの展望図)

広重の視角から見ると、小舟の列は岡野新田干拓工事
の境界ラインと完全に一致することが分かる。
広重図には工事境界を示す小舟の列が描かれる。
「広重が1832夏に東海道を旅した」という定説はすでに崩壊している。広重の旅は1833年の正月であろう。
干拓工事は水仕事なので、冬の間に測量だけ済まし、少し暖かくなるのを待って着工したのであろう。
数ヶ月後、広重はもう一度この場所を通りかかり、工事が始まっているのを目撃したらしい。
そのあと描き直された「再刻版」では、初版になかった「棒杭の列」が描き加えられている。
     初刻版    再刻版(数ヶ月後の改訂版)
                 棒杭なし          描き加えられた棒杭
歴史的な出来事が浮世絵に記録された希少な例である。
●広重が現地(神奈川宿)を歩いたこと/広重の旅は、定説でいわれる1832夏ではなく、1833冬であること を示す重要な証拠である。

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