浮世絵で見る保土ヶ谷宿   保土ヶ谷区生涯学習 保土ヶ谷歴史探訪 第6回講座      まとめ−図                
                                                                        目次へ
広重の前に、多数の東海道五十三次ものがあった。保永堂版東海道五十三次は先輩たちの東海道の集大成である。
上図の矢印はすでに認められ、あるいは認めざるを得なくなっているが、「江漢→広重」の矢印だけはまだ認知されていない。
定説が作られた昭和5年当時、これらの元絵やモデルはまったく知られておらず、すべて広重のオリジナルと信じられていた。
定説の基本になる前提が消えてなくなったのに、定説だけが生き残っているというのはきわめて奇妙な状況である。
上図のうち、司馬江漢の五十三次画帖については、問題が大きすぎるためこの講座(1−3部)ではほとんど触れなかった。

実はこの江漢画帖が、広重の謎を解くために最も重要なのであるが、江漢問題を抜きにしても、広重東海道五十三次には問題が山積して、解決が不可能になっていることをご理解頂けたはずである。
江漢画集が出現したことで定説にひびがはいったのではなく、定説当時知らなかった新しい事実が次々に発見されて自己崩壊したのである。江漢画帖により、古い謎/新たな謎がすべて説明できる。江漢画帖だけがこの苦境を解決出来る救世主なのであるが、そのことがまだ理解されていない。
第4部について
本資料(印刷物、CD・・)では、第4部として、講演(1−3部)で触れなかった江漢画帖の話を中心に若干補足してある。
江漢画帳を認めるだけで、広重の謎の多くが解けてしまうことも理解していただけると思う。
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