神明社の移転 (第1回講座)                                           まとめ目次へ

次の資料には、江戸の初期に神明社が現在場所に移転したことが明記されている。

神明社御由緒
元和5年、宮居を神戸山山頂から現在の場所に遷し、社殿の造営/境内の整備が行われた。

江戸名所図会:
神託あるをもって、嘉禄二年9月16日この山上に遷し奉り、また元和2年3月3日いまのごとく平地に宮井を造立す。

武蔵国風土記稿:神明社移転という記事はないが、元和5年弥生の棟札の記事があり。これが移転新築の工事と思われる。
棟札には、広範囲の地方有力者名と幕府の高官らしい武士名が多数列記されている。
雨漏り修理程度の工事なら、氏子総代の名前だけであろう。
江戸名所図会と年に少し喰違いがあるが、一方で「弥生−−3月3日」の類似がある。

武蔵国風土記稿は、棟札の実物を見ながら書いているようなので、元和5年の方が正しく、御由緒でいうように神明社が元和五年の神戸山頂から現在地に移転したのは確かであろう。


次の資料には、伝統的に「神明社移転」の記事が抜けているのが、不思議である。
●保土ヶ谷区郷土史  ●保土ヶ谷ものがたり  ●保土ヶ谷区史

神明社移転の裏付けと旧場所

(1)旧の場所は桜台小学校−保土ヶ谷教会付近と推定している。
桜ケ丘山頂には、神明社が収まるような広い地形は他にあまりない。

(2)武蔵国土記稿によると、大仙寺の旧名が「神宮寺」で、神明社との関連を窺わせる。風
大仙寺は神明社と一体の神宮寺であったが、神明社が移転したとき、残留して独立した寺になったらしい。
神明社に残るもう一つの棟札にある「権大僧都覚祐」は大仙寺の和尚とのことで、ここでも大仙寺と神明社との関係が窺える。

(3)明和7年地図(移転後150年):(第2回予定)
この場所に広い森が残っており「神社の森」の跡と思われる。当時の日本人の感覚では、神社の森自体が信仰の対象であり、社宮は単に参拝場所を示す目安であったという。神明社の社宮が引っ越したあと、すぐ森を切り開いて畑にするという気分にはなれなかったらしく、150年経っても森のままだった。ただし幕末にはこの場所は全部畑に変わっている。

この地図によると、保土ヶ谷と神戸の境界(神戸境)が移動しているらしい。(第2回予定)
もともと(移転前)保土ヶ谷教会や大仙寺付近は保土ヶ谷ではなく「神戸」だったはずである。
神明社移転後の地図では、神明社跡地は、保土ヶ谷になっている。下神戸の土地の代わりに上神戸の神明社跡地を保土ヶ谷に返還――すなわち神明社は土地交換の形で移転先の土地を入手したらしい。


明和7年図 移転後150年経ったのに神社の森がそのまま残っている。
(黒塗りが未開発の森)

(4)帷子川下流の等高線研究(第4回予定)から、神明社付近は、低湿帯で、鎌倉時代あるいはそれ以前は人の住める場所ではなかった。土地が乾いて交通路が開け、田畑や村が出来るのは江戸初期のちょうどこの時期である。土地区分をこれから決める新しい土地だったので、神明社移転先の土地の確保は比較的楽だったであろう。

神明社の移転理由(第2回予定)
神明社の移転時期は、旧々東海道が制定された十数年後である。神明社の移転の理由は明らかである。

桜ケ丘の山上にあった鎌倉道(主街道)が、次第に平地に移り、旧々東海道の制定で決定的になって神明社だけが山頂に取り桜ケ丘を通ってい残される形になっため、新しい街道(旧々東海道)沿いに移転した。移転の必要理由が誰の目にも明らかだったから、地元のた有力者や幕府関係の全面協力が得られたのであろう。

もし旧々東海道が桜ケ丘越えであれば、神明社は、旧々東海道沿いから旧々東海道沿いに移転しただけになり、移転の理由が説明できないことに注意。


鎌倉室町時代の海進

奈良平安時代の保土ヶ谷研究と神明社移転

「神明社移転がなかった」とすると、神明社は大昔から現在の場所にあったことになる。
明治初期の保土ヶ谷研究に見られる「昔からこの付近に神明社や郡役所があった」という説は今となっては、この辺り昔は海か湿地帯だったという地形の変化を無視した空論であり、これをことを前提とした一連の研究は砂上楼閣である。

説の中心になっているらしい吉田博士の「神戸(ごうど)=郡家」説は、全国に「神戸(ごうど)=神社領」の例外が多く、破綻している。
吉田説:神戸を「カンベ」と読むときは神社領だが、「ゴウド」と読むときは郡家(=郡役所)である。
根拠はと聞かれ、「地名の全国調査で、例外がなかった。」

保土ヶ谷の場合、神明社の移転に伴って、神戸(ゴウド)の地名が移動しており、吉田説の「例外」の代表例といえる。
また伊勢原の古社「比々多神社」(246号線)の神戸(ゴウド)も神社領の代表例であり、郡家に結びつけるのは無理な例である。

●保土ヶ谷区郷土史では、神明社の詳しい記事があるにもかかわらず、「元和5年の移転」記事がない。年表にも「元和5年」記事がないところを見ると、上記の一連の「奈良平安時代の保土ヶ谷」研究に配慮して、意図的に「神明社移転」を一切削除した?可能性がある。

●東海道倶楽部「保土ヶ谷宿とまちづくり」p15
「武蔵国風土記稿に“・・嘉禄6年(1225)現在の地に社を構えた”とある」と言う記述があり、「大昔から現在の場所に神明社があった」ことの裏付けのようになっているが、これは戦国時代の神主が書いた陳情書を引用した部分であり、ここでいう「現在」は戦国時代のことであり、「現在の地」とは「移転前の神戸山頂」なので、だまされないで頂きたい。

注)
江戸名所図会について、神明社移転を明記した原資料「江戸名所図会」は、 民間で作られた名所図会であるが、時間をかけて現地調査をきちんとやったことがよく知られている。とくに神明社付近については、文化13年9月12日に帷子橋と大神宮を取材したという取材日記が残っている。

文書の検討

「神明社御由緒」
ほぼ正確な内容だが、2、3ヶ所細かい点で気がついたことがあるので指摘しておく。
保土ヶ谷区郷土史以来の誤読をそのまま引き継いだものである

●武蔵国風土記稿

「お打入りの後、再まで造営ありしという・・」

「徳川入国の直後、宮を造営した・・」と読むのは誤読である。
お打入りの後」とは「徳川時代になってから」という意味の慣用句であり、「再まで造営・・」はその後に続く「棟札が2枚残っている」というのと同じ内容を言っているだけである。

「戦後」「終戦後」は「終戦の直後」のことではなく、日本の歴史を昭和20年を境に、歴史を戦前/戦後に分けているだけであり、昭和20年以降全〜現在まで全部を指す言葉だが、若い人は「昭和20−23年頃」野の意味に取り違えていることがある。それとよく似た誤読である。

●武蔵国風土記稿

神明御正体申、宮造在所号神戸

保土ヶ谷区郷土史と御由緒に「下宮を造り」とあるのは多分間違いである。「下宮を造り」だと「上宮がどこにあるのか」が心配になるし、前の文が「神明御正体と申し・・」となって、書き下し文がかなり苦しくなる。「神明御正体を申し下げ・・」と読めば、「伊勢神宮に申請して、御神体を下げ渡してもらい・・」と読める。その証拠に、武蔵国風土記稿のコンマは「・・申下、宮造・・」となっている。(ただし棟札の原文にはコンマがなく、武蔵国風土記稿編集の時、読みやすいように入れたコンマである。)

●武蔵国風土記稿

「従二俣川又、保土ヶ谷宮林云所御影移給間、」(武蔵国風土記稿)  これも似たような例である。
A.「二俣川より又下りて、保土ヶ谷宮林という所へ御影を移し給う間」
B.「二俣川より又、保土ヶ谷宮林という所へ御影を移し給う間」

どちらでも一応読めるので、どちらが正解か分からないが、武蔵国風土記稿のコンマに従えばAが正しいことになる。

保土ヶ谷区史(平成9)p150「神明社」   全体の文脈を読み違えているので注意。
神懸かりした少女の託宣は、「・・拝めもろ人」までであり、「・・武運長久・・」まで託宣としているのは間違いである。
「・・国守の武運長久・・」は戦国時代の神主の地の文章であるのに、少女の託宣ということになっている。

同書の索引の「神明社」の項に、肝心のp150 が出ていないのもミス。

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