第3回 東海道新道と保土ヶ谷新町                  まとめ目次へ
旧々東海道は、それまでの道をそのまま利用したために山裾沿いにあり、通行や町の発展に不便だったので、慶安元年(1648)新道工事を行った。新道計画に合わせて、街道沿いの保土ヶ谷、岩間、神戸、帷子の4町を一つにまとめて1宿とする新町計画が進められ、この新町計画の完成によって、我々のよく知っている東海道五十三次の時代に入ることになる。

ところが文献資料に書き残されたものを集めて読み比べると、話はこれほど単純ではなく、次のように日時その他の混乱があり、様々な複雑な事情があったように見える。

1)新町完成時期
慶安元年(1648)のほか、万治3年(1660)などの記述があり、混乱している。

2)岩間の特殊事情
武蔵国風土記稿では、3町合併と4町1宿の時期がずれており、岩間だけはあとから(万治3年)加入したように書いてある。
さらに岩間の加入時期について万治3年という記事がある一方、同じ資料の別な箇所には4町1宿の時期は不明とも書いてある。(・・四町を合わせて保土ヶ谷と呼べり。それも何時の頃よりのことにや考うべからず・・)
また岩間が幕府に反抗したため無理矢理移転させられたとも読める記事があり、岩間には何か事情がありそうである。

3)権太坂
万治3年に権太坂の開削/境木地蔵創立という重要な情報が保土ヶ谷区郷土史の中にある。この情報はこれまで保土ヶ谷史には組み込まれていないが、「万治3年の謎」が符合することに何か深い意味がありそうである。

以上の文献資料の支離滅裂について、「昔のことだから地元の人々それぞれの記憶が不確かなのだろう」と片づけてしまえば、それまでであるが、もし一貫した説明が出来れば、保土ヶ谷宿形成時期の謎解きが一挙に進むことになる。

 

予備知識  
  旧々東海道時代の四つの宿場
  東海道以前の交通路
      ――境木越えと石名坂越え
岩間と石名坂の予備知識

石名坂は右図のように、どこに行くにも通らねばならない重要な道。

鎌倉時代以来の主要街道で、室町〜戦国時代も主街道であり続け、江戸時代も重要な金沢鎌倉道であり、明治以降も大正末に保土ヶ谷線が開通するまで、主街道であった。(1200〜1925の700年間)

岩間宿は、石名坂の下に発達した東海道以前からの古い宿場である。

岩間の新町加入
「岩間だけ移転が何故遅れたのか」について,武蔵国風土記稿の編者が疑問を持ち、ヒヤリングして歩いたらしい。
ここの文章だけ読むと、まづ最初に三町合併があり、後になって岩間も加入させたら・・ということになって、四町一宿になったように見えるが、最終的に出来上がった四町の配置を見るとそうではないことが分かる。
四町の配置は「保土ヶ谷−岩間−神戸−帷子」となっており、岩間は中央部分の一等地に配置されている。岩間の合併は、最初の計画から決まっていたのである。

武蔵国風土記稿の記事は、明らかにどこか間違っている。

岩間の移転だけが遅れた理由
新町計画(4町1宿)を進めるために、まづ4町が一ヶ所にまとまる必要がある。
しかし上図のように、岩間の旧場所は新町の中心部に近いため、移転しなくても、とりあえず新町は発足出来た。工事の集中を避けるためにまづ3町が移転し、岩間は一軒ごとの移転先は決まっていたので、新築工事の準備が出来た家から順次移転して最終的には、全軒が東海道図筋に移った。
したがって「岩間宿が何時引越したのか」と聞かれても、移転日時は特定できない。ということだったと思われる。武蔵国風土記稿の岩間記事「・・この後、人家も次第に海道の内に移りて、ついに四ヶ町連なり、保土ヶ谷の一駅に隷すと言えり・・・」はそのことを言っているのであろう。
岩間と幕府とのトラブル?
武蔵国風土記稿に「岩間のものどもややもすれば、人夫の役に苦しむことを嘆き訴えしにより、また彼の村をも保土ヶ谷に移されけり。」とあり、岩間が人夫の提供について、事ある毎に難色を示し、人夫免除を再三嘆願したため、「いっそのこと東海道沿いに移住させてしまえ」として、半ば懲罰的に「強制移住させられた」ように読める。岩間が遅れた理由について、「強制移転を岩間が拒否して抵抗した」「しかし少しづつ説得されて移住し、最終的に全軒東海道沿いへ移住した」と考えられていた時期もあり、大畠著「保土ヶ谷の謎と謎解き」でもそのように書いてあるが、今となっては考えすぎであった。現在では次のように単純に考えている。

旧岩間の場所は新町の中心部に近く、200mしか離れていないため、四町一宿を発足するに当たって急いで引越す必要がなかった。工事の集中を避けるため、岩間の移転だけは後回しにした。岩間は新築工事の終わった家から順次引越し、数年の間に全軒が東海道沿いに引越しを完了した。ただそれだけの話だったのを、武蔵国風土記稿編者が大げさに考えて、記録したのであろう。

保土ヶ谷区史に「遠すぎることを理由として人足提供を拒否するには岩間が近すぎる」ことから、岩間村の中心はもっと遠い場所にあったのではないかという説が載せられているが、遠い近いが問題になるのは「助郷村」での議論であり、慶安や万治の当時はまだ助郷制度にはなっていない。
東海道初期には東海道沿いの宿場だけが人足と馬を用意する事になっていた。東海道制定のおかげで宿場が潤っているのだから、見返りに人足を提供するというギブ&テイクの考えである。
岩間宿は東海道には近いが、東海道沿いの宿場ではない。また昔からの金沢鎌倉道上の宿場であり、東海道制定の恩恵も被っていないから、人足を出す義務はないというのが岩間宿の言い分だったろう。
幕府を相手に「断固拒否」とは言えないので、「金沢道としての仕事があるから東海道の手伝いまで手が回りかねる。免除して欲しい」という趣旨の嘆願書の形になったと思われる。
ただし東海道初期の人足拒否は新町計画より以前の歴史的な話であり、これを岩間移転と結びつけたのは、武蔵国風土記稿の勘違いと思われる。
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権太坂の開削工事
「万治3年」は岩間の引越し年ではない。では資料のあちこちに出てくる「万治3年」は何の年だったろうか。

保土ヶ谷区郷土史(下巻)伝説の項に、次のような重要な情報が記録されている。
注)境木地蔵堂の堂守りであった喜撰法師藤田喜三郎翁(嘉永四年六月二十三日生まれ、昭和十年没八十五歳)の談によると、権太坂ではなくして権左坂であるという。というのは喜三郎氏の曾祖父の名が権左衛門であり、代官藤原の指図によって二番坂から下を開いたものであり、出来た坂道をその名にもとづき権左坂と名付けたのであると。この坂を開拓して鍬入れの日は万治二年八月十五日であったとの事である。

しかし、この情報はこれまで保土ヶ谷史の資料としてまともに取り上げられたことがない。
   (権太坂の地名の起源に2説があるという形でしか取りあげられていない。)

耳の遠い老人が自分の名前を聞かれた勘違いして「権太」と答えたという「権太坂の名前の起源」話に較べると、この記事は「何時、誰が、何故・・」のいわゆる「5W1H」が全部揃っており、無視できない正確な情報である。

昭和10年まで生きていた堂守の話を誰が聞いて記録したのかだけが不明で疑問に思っていたが、当時の保土ヶ谷区役所で観光や郷土史を担当していた岩野氏が堂守とも知り合いだったようで、保土ヶ谷区郷土史の編集にも当たったはずのこの方が情報として記録したものと思われる。(保土ヶ谷区郷土史「荻原井泉水の文」参照)

戸塚郷土史に、徳川家康が入国した天正17年に戸塚付近で大規模な道路工事が行われた記録があり、
権太坂がなければ境木越えの道は通行出来ない」から、権太坂は東海道以前からあったはずという論理が出ており、保土ヶ谷区の郷土史にもときどき引用されるが、「権太坂がないと境木道は通れない」というのは基本的な独断である。権太坂がなくても境木越えの道は通じている。(右図)

●境木中学から境木商店街の坂を下っていくと、JRの線路にぶつかる。線路を越えた先が、ちょうど今井道の法泉下バス停で、ここから今井村へも、元町へも、山越えで仏向/和田方面へも、どこへでも行くことが出来る。地形的に見ても、明治13年地形図を見ても、これが権太坂がない場合の標準的な交通路であることが分かる。

境木へは法泉下から坂を上ることになる。坂の上り口には旅人のための旅籠、茶屋、売店が必要で、宿場が発達する。ここが鎌倉時代から権太坂が出来る万治3年まで保土ヶ谷宿のあった場所である。

●旧々東海道時代の慶長14年検地帳では、現在の元町付近の地名は「宿尻」で、「宿のはずれ」であった。
一方、法泉下に「宿」「辻」「屋敷」など宿場を示す地名が集中している。
また新町が出来たあとの検地帳では、「屋敷」の地名が「屋敷跡」に変わり、本陣が新町に移転したことを示している。

権太坂がなくても、境木越えの道は通じている。
法泉下が境木越えの起点であり、保土ヶ谷宿の起源である。    
以上のように
@ 保土ヶ谷区郷土史の「権太坂開削記事」
A 地形図−境木〜法泉下
B 慶長の検地帳地名
の三つの資料から、権太坂は昔からあったのではなく、1660年に作られたことが証明できた。
元町の移転
権太坂がない時代の保土ヶ谷宿が現在の元町(権太坂上り口)にあったとは考えられない。
慶安の新町発足のとき、旧保土ヶ谷宿の一部の施設が坂の上り口に残留して元町になった(旧元町)。
さらに万治3年の権太坂の完成で、「元町」の名前を持って現在の元町の場所に移転した(新元町)。
武蔵国風土記稿では、元町が新旧二つあることに気がつかなかったため、記述が混乱している。
   
慶安元年(1648)と万治三年(1660)のまとめ
●大畠説
「1648年新町発足/1660年新町計画完了」あるいは「1648第一次新町計画/「1660第2次新町計画」
保土ヶ谷区郷土史
本文には記述がないが、末尾の年表では「1648新町工事着工/1660新町工事完成」と明記しており、大畠説に近い考えであることを今回発見した。
この年表も前記の「堂守聞き書き」と同様に、保土ヶ谷区郷土史編集の事務局だった保土ヶ谷区役所の岩野氏らが作ったものと思われ、先生方に依頼した原稿とは別に、大畠説と同じような独自のイメージがあったものと思われる。

(1)宿場の仕事は鉄道の駅と同じで、「何月何日から営業開始」だけははっきりしていることが必要である。慶安元年は仮店舗であろうと何であろうと、新町が四町一宿の形で営業を開始した日付であり、「着工」より「発足」の方が適当である。
(2)「新町完成」について、保土ヶ谷区郷土史では、「権太坂完工、岩間の移転完了」としているが、大畠説では「権太坂完工、元町残留組の移転完了」としている。「万治二年岩間の移転」記事は武蔵国風土記稿の誤りである。

★第1次と第2次の間が12年と長すぎるのは、第1次工事直後の慶安2年、江戸三大地震の一つ「慶安の大地震」があったためであろう。川崎宿では120戸倒壊の大被害、各地の宿場に被害が出ており、幕府は新規計画を延期して、数年間復旧に注力したのであろう。

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東海道以前(古町橋が通れず*、権太坂がなかった時代)の交通路 (*古町橋付近については第四回で説明
武蔵国風土記稿「太田道潅時代の街道」記事
この頃の街道は今より乾(北西)の方にありて、その道の次第は、相州境より今のごとく来たり、元町の内東に行くところを行かずして、田間を越え、うしとら(東北)の辺り、片倉村の方へ入しなり。

ソニー付近−仏向−和田橋−三ツ沢−片倉は、常に片倉を東北の方向に見ながら進むルートで、この記述と合致する。

●仏向町の田辺政義氏によると、
野球場付近に、戦後まで塚が並んでいた。(大畠注 十三塚の類と思われ、街道の入口にあることが多い。)
田辺氏はほかに花見台住宅工事の際、砂利を敷き詰めた簡易舗装跡を発見しており、この二つを理由に、以前から、大畠説と同じ「花見台→石名坂」鎌倉道説を提案しておられた。
和田橋−石名坂ルート
古町橋が通れない時代、和田橋から石名坂への鎌倉古道が通じていたはずである。
地図でたどると、和田橋−仏向団地−花見台−桜ケ丘−帷子町郵便局−石名坂のルートしか考えられない。
桜ケ丘を通る街道であるが、従来いろいろ言われていた桜ケ丘説とはまったく逆方向の道であることに注意。
和田橋−花見台間は、次が最短ルートで、明治13年地形図に載っている。

和田橋−仏向団地−向原−公園橋−ハングリータイガー−野球場(三塁側)−花見台
神奈川坂」の地名
@慶長の検地帳、A元禄の検地帳、B昭和初期の土地台帳に「神奈川坂」の地名がある。
いずれも桜ケ丘や仏向を越えて帷子川(和田橋?)に出る道を示しているようだが、@とBが同じ場所かどうか検討を要する。道のルートが移動するにつれて、神奈川坂の地名も移動するのではないか。

Aは、今井境−神奈川坂−狩又谷−の順に並んでおり、Bとは明らかに違う別の神奈川坂である。
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