第4回まとめ 
帷子川下流の等高線の検討−鎌倉室町時代の交通路       
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大畠説の基本 
鎌倉室町時代、天王町駅星川駅付近は、海中/低湿帯で古町橋は通行できなかった。
帷子川の渡河点は和田橋であった。


交通路が大きく変わったのは、
海退により海面が低下したのが主な原因

この変化は、関東地方全体に、同時平行して起きたはず。
海退の規模と時期について
金沢八景と多摩川下流が強力な参考資料になる。
海面の低下が原因なので、等高線を比較することで、当時の海と湿地帯がどこまで広がっていたかが精度良く推定できる。
地学によると、海だった場所が陸に変わる原因は3つあるが、数十年から百年規模で起きる変化は、すべて海退が原因であるという。
陸の隆起は
数万年から数十万年規模でしか起きない。
上流から運ばれた土砂の堆積については、降雨の度に大規模な土砂崩れが起きる
上流の土砂供給源がなければならない。

地球の歴史上、海退が頻繁に起きたことは事実であるが、
海退の原因については未だに定説がないという。学説が数百もあり、どれが本当だか分からないらしい。
交通路が大きく変わって、古町橋が通れるようになったのは、太田道潅の死後(1648没)80年くらい経ってからで、1556年に武田信玄が小田原に乱入したときの戦記には、交通路が変わり始めていたことを示す記述が、いくつか断片的に見られる。

  「六郷橋がすでに落とされていたので・・本門寺の僧に案内させて丸子橋を渡った。」
  「神大寺に現れた武田軍が、
斜めに進んで帷子へ掛かった。」
「古町橋付近が海であった」という説が正しいことになると、その影響は甚だ大きい。
奈良/平安時代、この付近が穀倉地帯で、郡役所があって橘樹郡の中心だったという話は、根も葉もないことになる。
神明社が昔から現在の地にあったというのも嘘になる。

鎌倉道の研究では、「古町橋−石名坂」ルートが現在の定説になっているが、それも間違いである。
  (このコースは鎌倉時代の鎌倉道でなく、江戸時代に近くなってからの鎌倉道−後期の鎌倉道であろう。)

古町橋が通れなかったことになると、「東海道以前の保土ヶ谷」に関してこれまで書かれていたことがすべて覆ることになる。大畠説の根拠(等高線)については、しっかり検証しておく必要がある。
 
1.金沢八景と多摩川下流(参考)

(1)金沢八景は、鎌倉時代の港だったから、当時の海岸線の様子がよく分かっている。
                 (横浜市歴史博物館のパノラマなど)。
  その後も観光地として賑わったので、海岸線の変化もよく記録されている。

(2)多摩川下流「六郷の渡し」は近世になってからの交通路。
  それ以前はもっと上流の「丸子の渡し」「矢口の渡し」を通っていたことは、江戸時代からすでに知識人の常識であった。
   六郷は近き世よりの渡しにて、その水上は弓と弦、矢口の渡しにさしかかり・・・
  平賀源内作の人形浄瑠璃「神霊矢口の渡し」執筆のエピソード

また明治大正戦前の研究者もこのエピソードを通じて、多摩川下流が通行できなかったことをよく知っていた。
●帷子川下流にも多摩川下流と同じことが起きたのではないかというアイディアを、明治以来、誰も思いつかなかったのは、今となると不思議である。
金沢八景:
房総から日蓮の乗った乗合舟が上行寺門前に着いた。
(船繋ぎの松)。寺の隣が港の警護所跡。
舟の進路の海抜(16号線上)は2mで、地形上埋め立ての形跡はないことを現地確認。

海岸近くの朝比奈街道と州崎神社方面を結ぶために、山を掘り下げた切通し道の海抜は4m。

以上から、鎌倉時代の海面高さを推定出来る。
現在の海抜2mの場所は、鎌倉時代には中型船が通行。海岸近くであれば、4mでも街道の通過可能だった。
(大雨/長雨でも海面が上がることはない。)
多摩川下流:
太田道潅時代の「准后道興の回国雑記」道、僧万里の梅花無尽蔵「東行記」道は、今でもたどることが出来る。

大森から内陸に入り、池上本門寺の下を通過して、丸子の渡しを渡るルートである。

多摩川下流の海抜4m以下の地帯を避けて迂回し、ほぼ正確に海抜5−6mを通過していることが分かる。

また矢口−平間付近は、地形がくびれており(現在のガス橋)、ここに矢口の渡しがあった。
現在の海抜2mは完全に海中
4mは、海岸近くなら通交出来るが、やや内陸部では、大雨長雨時の増水分を考慮して、5−6mが街道の標高
2.帷子川下流の等高線

5万分の1地形図の等高線は、10m(補助線5m)、2万5千分の1地形図の等高線は5m(補助線2.5m)、1万分の1地形図の等高線は2m(補助線1m)。
1万分地図(S60年発行)でないと、3m4m5m6mの等高線は分からない。

1万分地図の等高線は、他の線に紛れて非常に読みにくい。スキャナーでパソコンに取り込み、3倍に拡大した画面で等高線を読みとった。
別に、「カシミール3Dの5万分地図画面の右クリック」で、spot地点の標高をダブルチェックし、読み取りミスがないことを確認した。

5万分地図の星川小学校付近の等高線は、1万分地図と較べると1m程度高く出ている。
金沢八景は更に不正確で、1万分の1地図と較べると、2mの地域までが4mとされている部分が多い。
もちろん1万分の方が正しい。


3m等高線:天王町駅〜古町橋付近は3m以下の地域であり、古町橋の通交は不可能。

  4m6m等高線:異常に細長いのが特徴
4m6m等高線が、異常に細長いのが帷子川下流の地形の特長、細長い沼地があり、それが海退で急に干上がったものであろう。標高差があまりないため、陸地化が短期間に急速に進み、中間に橋が出来る暇がなかったらしい。
<古町橋と和田橋の間に橋がなかったらしいということは以前から指摘されていた。>
明治の地形図や江戸時代の古地図を見ても、中間に橋があったらしい形跡はない。

渡河点の推定
多摩川下流にならって、4m地帯は通行不可能、街道は5m以上という想定で、渡河点を推定する。
星川駅付近は4mで通行は無理である。5m等高線は、横浜新道高架線の下あたりにある。
星川小学校−和田駅間の道(6m)
和田橋は6mで、街道が通じるのにギリギリの標高である。

等高線の検討からの重要な結論
1)古町橋は現在の海抜3m程度。多摩川下流の例などから推定して鎌倉室町時代は低湿帯で通行できない。
2)当時の交通路(渡河点)は、海抜6mの和田橋と思われる。
3)4m6mの等高線が細長く、平坦であることが特徴で、鎌倉室町時代は、土砂の貯まり込んだ細長い沼地だったことが分かる。
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3.東海道以前(古町橋が通れず*、権太坂がなかった時代)の交通路 (*古町橋付近については第四回で説明
武蔵国風土記稿「太田道潅時代の街道」記事
この頃の街道は今より乾(北西)の方にありて、その道の次第は、相州境より今のごとく来たり、元町の内東に行くところを行かずして、田間を越え、うしとら(東北)の辺り、片倉村の方へ入しなり。

元町(法泉下)−ソニー付近−仏向−和田橋−三ツ沢−片倉は、常に片倉を東北の方向に見ながら進むルートで、この記述とよく合致する。

 
3−1.和田橋−石名坂ルート
古町橋が通れない時代、和田橋から石名坂への鎌倉古道が通じていたはずである。
地図でたどると、和田橋−仏向団地−花見台−桜ケ丘−帷子町郵便局−石名坂のルートしか考えられない。
桜ケ丘を通る街道であるが、従来いろいろ言われていた桜ケ丘説とはまったく逆方向の道であることに注意。
和田橋−花見台間は、次が最短ルートで、明治13年地形図に載っている。

  和田橋−仏向団地−向原−公園橋−ハングリータイガー−野球場(三塁側)−花見台
●仏向町の田辺政義氏によると
野球場付近に、戦後まで塚が並んでいた。(大畠注 十三塚の類と思われ、街道の入口にあることが多い。)
田辺氏はほかに花見台住宅工事の際、砂利を敷き詰めた簡易舗装跡を発見しており、この二つを理由に、以前から、大畠説と同じ「花見台→石名坂」鎌倉道説を提案しておられた。

●和田橋−仏向団地裏−向原−公園橋−ハングリータイガー−野球場3塁側−花見台交番
 
3−2.和田橋−法泉下(−境木
上の地図にしたがって、和田橋−電波塔−ソニー研究所付近に達する。
ソニー〜法泉下にはいろいろなコースが考えられる。(下地図)
鎌倉時代の鎌倉道は、谷や川沿いを完全に避けることが多い。ソニーから山を越えて法泉下に出る最短距離コースがこの条件に当てはまるので、最古の道ではないかと思われる。(下図:カシミール3D機能による街道の上り下り断面図
勾配がきついことは問題にならない。鎌倉室町時代の道は、故意に急坂を選んでいる傾向がある。
(山から急に下って、川を直角に横切り、すぐまた山に上るのが鎌倉時代の道の特徴である。)

一度下ってまた上り直す必要があることが問題である。

断面図では、70m−40m−70m−30mのように標高差30m分の上り下りが一度多いが、地図からも実際に歩いてみた印象からもそれほどの難所とは思えず、古いルートとして妥当と思われる。

神奈川坂」の地名
@慶長の検地帳、A元禄の検地帳、B昭和初期の土地台帳に「神奈川坂」の地名がある。
いずれも桜ケ丘や仏向を越えて帷子川(和田橋?)に出る道を示しているようだが、@とBが同じ場所かどうか検討を要する。道のルートが移動するにつれて、神奈川坂の地名も移動するのではないか。

Aは、今井境−神奈川坂−狩又谷−の順に並んでおり、Bとは明らかに違う別の神奈川坂である。
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