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    江漢画集の成立事情     江漢の自筆資料*
1811(京都の前年) 文化8八月二十七日海保青陵あて書簡 ・・・頒布会、大名子弟への御進講、講演会
小子も近年は西洋天経学にはなはだ通じ申し候て、毎月八日二十日会として講し申し候、京極備前之守侯世子また阿部福山の世子、皆門人にて彼方へ参候論談いたし候。さて人は文字を知り足る人は多く有候えども、理を知る者は少なし。・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、・・・
 
1812 江漢は京都に6ヶ月以上滞在し、京都の文人仲間に歓待されて楽しく暮らしていた。  江戸と違い京地は人物好く、おもしろき人のみ多し。・・・江戸の風韻と違い申し候。京は風流雅人多くおもしろきところにて以文会とて・・その会にも加わり、・・今思うに十年も二十年も早く来らざることを悔やむ・・
そこへ江戸の親類(娘夫婦)から「預かっていた金子120両を無断流用(利殖)して回収できなくなった」という変事の報が入り、11月京都発で江戸に戻る。 ・・・親類どもに金子預け置きしにその金を私用に使い失いしこと京都へ申し来たりし故、俄に・・江戸へ帰り来るに・・・
京都からの帰路、初冬の風景/快晴の富士を写真鏡で取材。

京都の版元との間に、「和蘭奇巧」(西洋の器械道具類の図解本)の出版話が進み、その中に絵を描く道具「写真鏡」を使った風景を挿し絵として入れることが決まっていた。
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

この度
和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
1813 江戸に戻った江漢は、貸し金取り立てプロの左内を起用して 貸し金の取り立てにあたり、90%回収に成功するが、・・・ 江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申、然し十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・
小子老衰して業を務ること不成、故に工夫し、兼ねて左内というもの、信濃の生まれにて・・
予左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それより
だんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カン?と贈る也、然し是は善知には非ず。
・・・信州辺りの人は一体生まれつき剛直にして愚なり。
事を起こすこともするなり。
それがこじれて世間に弾劾され、6月に引責引退に追い込まれ、さらに8月にはニセ死亡通知を出して失踪してしまう。 然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候、先は万々申残し後便可申上
偽の死亡通知
江漢先生老衰して画をもとめる者有りといえども描かず。諸侯召せども往かず、蘭学天文或いは奇器を巧婿とも倦み、ただ老荘の如きを楽しみ、・・鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟子となり(以上「死亡」以前に引退していた)ついに大悟して後、病て死にけり。・・・文化癸酉八月 七十六翁
「和蘭奇巧」の出版話も流れ,江漢は無駄になった写真鏡取材を活用して東海道五十三次を作成する。 八月鎌倉円覚寺において死にたること板行にして知己へ皆知らせけるに、誠に訪者旦てなし。
今は画も時にふれ相認め申し候、とかく後世へ残す事のみを楽しみにいたし候、ほかに慰み楽しむことなし。
江漢画集「日本橋」に「相州於鎌倉七里ヶ浜」とあるが、江漢の鎌倉在住は1813年6月〜秋までで、冬には江戸に戻っている。これが江漢画集の作成時期である。 世には死したると告げ、この秋鎌倉山に閑居を結び居り候ところ、冬になり田舎も寂寞として寒く、またまたこの間神仙坐に帰り候て

(鎌倉)市中のかまびすしく 、熱海に隠れんことを思い、鎌倉逃れんとも想い、・・・冬に至りて東都に帰りぬ。
 
隠退後、江戸での生活 ・・・今は(麻布)コウガイの辺地へ庵を結び、一人の老婆を使い安居仕り候・・・
去年八月死たると申事を世上に告げければ、訪人一人もなし
江漢後悔記
われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し、名のなき者誤るといえども知る者なし。この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや。
江漢人生の総括−−有名になろうとして数十年努力してきた結果、有名人であるがために普通の人なら見逃される程度のわずかな過ちを世間に騒がれ、人生を棒に振った。何と馬鹿げた事ではないか。・・・江漢の不祥事
1818江漢辞世の句
「江漢は年が寄ったで死ぬるなり 浮世に残す浮画一枚」
              ニセ死亡通知書   辞世(写し) 明治20年高橋由一(天絵楼主人)添え書き

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